2007年2月15日 (木)

◆ガラス工房解説 1 【Baccarat】

Baccarat

1764年10月16日にパリから東に約400km、アルザス.ロレーヌ地方バカラ村に創立。時のフランス国王ルイ15世の勅許を受け、同地方の司教ルイ.ド.モンモランシー=ラヴァルによりサンタンヌ.ガラス社として創設された。但しその背景としては戦乱による経済の建て直し、失業者の救済、そしてボヘミアンガラスに対抗した自国産業の開設といった芳しくない諸事情があった。

この頃のガラス産業の時代背景としては 15~17世紀に興隆を極めたヴェネチアンガラスからヨーロッパ各地に拡がったファソン.ド.ヴェニス。それ以後北アルプスの二大ガラス生産地となるドイツ、ネーデルランド。18世紀前半からはより透明度と硬度の高いカリガラスに、緻密なエンヴレーヴィングやゴールドサンドウィッチといった高度な技術を駆使し一世を風したボヘミア。更には鉛クリスタルの発明によりガラス工芸に急激な進展を見せてきたイングランド。現在に想像されるガラス王国フランスの面影は微塵もなかった。
そんな状況下で当初は主にボヘミアの模倣品や鏡、窓ガラスなどの実用品を生産し順調に運営されていたが、フランス革命とナポレオンの没落により経営は急激に悪化し工場を閉鎖。 1816年、遂には売却を余儀なくされてしまう。売却価格は純金2845オンスで実業家エメ=ガブリエル.ダルティーグの手に渡るが、彼は以前にガラスエ場を経営しており、その後サン.ルイの重役を務め上げた若手の実力者であった。ダルティーグは社名をバカラ.ヴォネージュ工場とし、同年11月に工場最初の鉛クリスタル窯を稼動させる。パカラがクリスタルガラス工場へと姿を変える第一歩であった。

ダルティーグの手により会杜は再び順調に成長、フランスを代表するガラス工場となったが、 1823年に突然同僚の三人に工場を売却する。三名の共同経営者はピエール=アントワヌ.ゴダール=デマレを会長とし、杜名はバカラ.ヴォネージュガラス.クリスタル社となった。ゴダール=デマレは「最良の素材と、最高の職人の技術、これらの完壁性を将来に継承することが最も重要」と、品質重視、職人重視の気風を色濃く打ち出した。
1830年代からバカラは職人用の無料の住宅や学校を設立し、疾病、貯蓄、退職といった各種厚生基金を備える、といった当時としては考えられない最先端の福祉制度を充実させる。また工芸品としてガラスの芸術色も力をいれ、1923年出展したフランス産業製品博覧会で金賞を受賞する(1849年まで連続受賞)。1941年には現在にも続く初のグラスセット、銘品「アルクール」の販売。この時代以降、バカラは矢継ぎ早に新しいガラス工芸技術を取り入れ、名声を博していく。

32%の鉛含有率を誇る高品質のガラスを使用し、1846年よりぺ一パーウェイトの製作を開始、ミルフィオリと同時にサルファイドの技法を取り入れる。1855年には従来のエングレーヴィングに加えアシッド.エッチング技法を開発し、後に導入、大量生産を可能にした。1878年にはタイユ.グラヴィールにより、従来よりも深い彫刻をガラスに施す事が可能となる。同時に1855年にパリ万国博覧会で金賞受賞、1867.1878年の同博覧会では共に大賞を受賞するなどの栄誉を博し、名実共にヨーロッパを代表するガラスメーカーとなった。
また、フランス王室(1823年~)、ロシア皇帝(1896年~)を始めとし、トルコ、インド、日本といった世界各国の王室、皇室の特注品を手がけ「キングオブクリスタル」の名声を得る。それら以外にも、貴族のテーブルウェアといった実用品にまで、その高度な技術を注ぎ込み高品質なガラスを作り続けた。

三度に於ける万国博覧会での高評価で、国内外を問わず注文が殺到したバカラはその後の万国博覧会には出展せず会社としての設備充実と販売網の整備に当たる。この問ヨーロッパやアメリカではナンシー派を中心としたアール .ヌーヴォーが流行(1890~1910年頃)、新感覚の装飾美がデザインの主流を占めていく。ただ、バカラはジャポニズムの影響はたぶんに受けたものの、アール.ヌーヴォー自体にはさほどの影響は及ぼされなかった。一時期、カメオガラスなどの製作を試みるが短期間で中止し、あくまでクリスタルガラスの素材特性を生かした上で、青銅とガラスの組み合わせなど新しいスタイルを発展させていく。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけ、香水瓶の受注が急増しその為に彫刻工房を増設、新たにバカラの一分野を形成するほどに至る。

バカラは 1916年からジョルジュ.シュバリェをデザイナーとして迎え入れる。アール.デコ期と重なって簡素なフォルムにカッティングの装飾美を引き立たせたモダンなデサインや、カトラリーの大手であったクリストフル社とのコラボレーションにより、ガラス製品と生活領域の統合を試みた。また「レイラ」「ローズ」シリーズなど、クリスタルガラスのラインナップを格段に充実させるなど、第二次大戦を挟んで彼の進んだ方向性は、現在のバカラ様式に密接に関連している。

現在、バカラはフランスの高級ハンドメイドグラスの 50%以上を生産している。更に販売量の半数以上が輸出用であり、世界中の王侯貴族、公大使により愛用されている。その理由は前述した「最良の素材と、最高の職人の技術、これらの完璧性を将来に継承することが最も重要」というゴダール=デマレの言葉に集約されているであろう。
素材であるが、通常クリスタルグラスの原料における酸化鉛の含有量は 24%程度であるが、バカラの場合は酸化鉛が30%以上含まれており、レッドクリスタルと呼ばれる屈折率の高いものである。バカラ独特の重量感と、指で弾いた際の高く澄んだ金属音はこの原料の比率と調合による。バカラを愛用する歴代王族が早世するのは、この鉛の含有量が高い為、何代にも渡り蓄積されるからである、という信密やかな噂が飛び交うほどである。
また、深く繊細なカットが施せるのも、鉛含有量由来のガラスの柔らかさと弛やかさによるものであるが、それを可能にできるのも職人の高度な技術があってこそである。MOF( フランス最優秀集職人、日本における人間国宝 ) の称号を受けた職人が常時40人以上製作に携わっているからこそ、常に高品質なものを作り続けられる所以であろう。

更にグラスのデザイナーも、ガラス専門の専属デザイナー以外に服飾、インテリア、芸術家といった他領域のゲストデザイナーを多岐に渡り招聘している。その面々はサルバトール.ダリ、セザール等といった錚々たる顔ぶれである。1999 年には日本画家の千住博が東洋人として初めてバカラのデザイナーに選出され、ダリ以来のアーテイスト・コレクション四作目を担う。

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◆ガラス工房解説 2 【St.louis】

St.louis

1767年2月17日、バカラと同じくアルザス.ロレーヌ地方のミュンツァールに創立。元々、同地には1586年に建てられたミュンツァールガラス工場があり鏡や板ガラスなどの実用品を生産していたが、四次に渡る30年戦争で荒廃してしまう。そこでガラス製造会社のM.ルネ=フランソワ.ジョリー社により、工場を復活させる提案がなされ、国王ルイ15世は認可と「サン.ルイ.ロイヤルガラス工場」の名称を与えた。サン.ルイとはカペー王朝、聖人ルイ9世の別称である。

サン .ルイも創立後初期はボヘミアの模造品や実用品ガラスなどを生産していたが、1780年に工場長ド.ボーフォールがフランスで初めての鉛クリスタルグラスを導入、翌年には生産に着手していく。クリスタルガラスのサン.ルイとしての第一歩であると同時に、この後クリスタルガラスの技術はバカラやヴァル.サン.ランベールなどに伝わり、ヨーロッパのクリスタルガラス工業の発展に大きく寄与することとなった。

19世紀に入ると、サン.ルイはクリスタルガラスの生産に増々専化していく。またアメリカで発明されたプレスガラスの技術を取り入れ、生産能力を格段に向上させる。その結果、当時としては初めてのクリスタルのテーブルウェアを販売、当時台頭してきた高級貴族層に珍重された。1830年には社名を「サン.ルイ.クリスタル社」に変更、1832年からはバカラ、ジョルジ=ル.ロワといった大手ガラスメーカー数杜と提携し販売代理店ローネー.オタン.エ.カンパニーを設立、販売網の整備拡張を図った。(同社は1857年に解散、買収、合併を経て最終的にはサン.ルイとバカラだけが存続)

19世紀中期以降には、綴密なエングレーヴィングやカット技術により優れた製品を生み出し、1845年にはサン.ルイの名を世界的に広めるぺ一パーウェイトを発表する。ミルフォイリ、カメオ技法、ランプワークなどを駆使し、バカラやクリシーと共に人気を博し、特にミルフオイリのぺ一パーウェイトはサン.ルイの代名詞ともなる。また1890~1910年間には、被せガラスにカメオ彫刻を施したもの多数制作する。これらアール.ヌーヴォー様式の作品は「ダルジャンタール」の銘が入れられ、ナンシー様式、特にエミール.ガレ色の強いものが多い。
ただ、時を同じくして、バカラなど他の工房が万国博覧会で独創性溢れる作品を発表し人気を集めるのに対し、サン.ルイは美術的創造性の強い作品には乏しかった。またペーパーウェイトブームの終焉などもあり、徐々に時流から取り残されていく事になる。

しかし、伝統による高い技術やオリジナリティともいえるテーブルウェアの品質は不変で、世界の元首や大使館の晩餐で愛用されている。特に 1913 年に発表された「ティスル」に代表される金彩を施した優雅なテーブルウェアは、ぺ一パーウェイトやカラークリスタルと共に現在のサン . ルイの典型と言えるものである。

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2007年2月24日 (土)

◆ガラス工房解説 3 【Lobmeyr】

Lobmeyr

1822年11月、オーストリア北部グリースキルヒェン出身のヨーゼフ.ロブマイヤーがウイーンにガラスショップを創設したことに始まる。この時代のボヘミア周辺は既にガラスの一大生産地域となっていた。同地域はローマ、ヴエネチアと違い山間部に位置する為、伝統的にカリガラスを使用していたが新技法により透明度の高いカリ.クリスタルガラスが開発され、特に17世紀後半からその特性を生かしたボヘミアングラスがヨーロッパの市場を席巻していた。
そんな中、ヨーゼフもカリクリスタルのグラスセットの仕入販売を行い、当時台頭してきた新興ブルジョアジーの嗜好とも相まって事業は順調に推移した。 1823年には表通りの広い店舗に移転、やがてデザインも行うようになる。1835年にはハプスブルグ家皇帝フェルナンドー世にシャンデリアとグラスセットを納め、翌年には早くも「皇帝御用達」の勅許を受ける。また1851年からは、ビンペルクのマイヤーズ.ネッフェ社と提携してボヘミアとの関係を深めていく。

1855年、ヨーゼフが死去するが息子のヨーゼフJrとルードヴィヒの兄弟が二代目となり、1860年に社名を正式に「J&Lロブマイヤー」とする。同年、「オーストリア王室御用達」の勅許を受けた。その後も1867、1878、1900年のパリ万国博覧会などを筆頭に各種博覧会で金賞、銀賞を受賞する。同時期にシェーンブルン宮殿やウィーン学友協会ホール、ザッハホテルなどのシャンデリアにも着手、「シャンデリアのロブマイヤー」の称号が輝きを放つようなる。19世紀後半からフランスを中心にアールヌーヴォーの波が押し寄せてくるが、相容れないスタイルとは迎合せずロブマイヤーは距離を置いた。
1917年にルードヴィヒが他界した後、甥のシュテファン.ラートが跡を継ぐ。シュテファンはウイーン工房(反アール.ヌーヴォー派によって設立されたガラス工房)のヨーゼフ.ホフマンを美術部長に迎える。彼はロブマイヤーの伝統的スタイルを守りつつ、バロック風の古典的デザインやアールデコ期の幾何学的でモダンなデザインを見事に融合、昇華させた。特にシュヴァルツロット技法による黒色文様はこの時代の代表的形式であった。また、ボヘミア各地に自社ガラス工場を設立、同地の伝統的デザインや装飾技術を吸収していった。因みにこの時代には「パトリシアン」を筆頭に、「ベルヴェァーレ」「チロル」「アンバサダー」などの名作が発表され、現在でも作り続けられている。
しかし第二次大戦が始まり、シュテファンはオーストリアを離れなければならなくなる。息子のハンス .ラートが四代目となり戦火を逃れながらも制作は継続された。この時期、スワロフスキーの工場で仕事を続けている。ようやく戦争が終わるとハンスは被災した教会など、バロック建造物の修復に力を注いでいった。

そして 1966年、ロブマイヤーを再度世界に知らしめ、その評価を不動のものとした作品が完成する。ニューヨーク、ニューメトロポリタン.オペラのシャンデリア。オーストリア政府が戦後の復興の為、多大な援助を受けたアメリカに対しての感謝の意を表し贈呈したものである。その後、旧ソ連クレムリンホール、中近東宮殿などのシャンデリアや、世界各国の政府関連、王族貴族などへのテーブルウェアなど次々と依頼は舞い込んだ。だが自動車事故でハンスが急逝、ハラルト、ぺ一ター、ヨハネス.シュテファンの三人の息子が共同経営する形で再出発する。彼らは伝統であるシャンデリア・グラスセットの他に、1970年代になって世界的な高まりを見せてきたスタジオガラス.アートの制作を試みる為、新しい工房を設立するなと新機軸の展開も試みた。

現在ロブマィヤーはウィーン工場のみで制作を行っており 、 ハラルトの息子、アンドレアス .ラートが六代目として就任している。高級アートガラス愛好家からは依然として高い人気を誇っており、その理由はロブマイヤー独自の、世界屈指と言われる技法と高い芸術性に起因している。
特にホイールエングレーヴィング技術は世界最高峰のレベルを有する。一般的に使用されるダイヤモンドではなく、銅製のコパーウィールを用いることにより、切り口の柔らかい、繊細でかつ立体的な表現が可能であるが、熟練した職人の高度な技術が要求される。文様の周辺を彫りこむことにより、浮き出たように見える「レリーフ (カメオ)」と、文様そのものを掘り込み、その深みの微妙な差異によって立体感を出す「インタリオ」を駆使し、ロブマイヤー独特の、繊細で柔らかく、ぬくもりすら感じさせる装飾が施される。
またもう一方で、カリクリスタルの硬質で軽い特性を生かした宙期吹きの極薄グラスもロブマイヤーの伝統によるもの。モスリン.グラスと呼ばれるこれらは「そよ風に吹かれてグラスが弛んだ」という伝説を生んだ。透けるような薄さと持ち心地の軽さ、唇に触れた際の絶妙の触感は他では見られない。

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◆ガラス工房解説 4 【Moser】

Moser

1857年、ルートヴィッヒ.モーゼルによって「モーゼル.ガラス工房」として創立、チェコ.ボヘミア北部のドイツ国境近くカルロヴィ.ヴァリーに工場を構えた。当初はガラス研磨工房であったが、次第にガラス職人を招聘、ボヘミア伝統のカリ.クリスタルガラスでグラヴィール技法のガラスを生産していった。同地は中世からのヨーロッパ最大の温泉地であり、各国の王族貴族、芸術家などが頻繁に保養に訪れていた。そこで、モーゼルの卓越した装飾技術のガラスは彼らの眼に留まることとなる。
19世紀後半から20世紀にかけて、モーゼルのテーブルウェアはオーストリア皇帝フランク.ヨーゼフの宮廷御用達勅許を受け、ボヘミアンガラスを代表する存在となる。また、英国キング・エドワード7世、ノルウェーのハーコン7世などの各国王侯や、作家オノレ.ド.バルザックといった芸術家にも愛用され、国内外を問わず「キング.オブ.グラス」の名声を獲得した。同時に1870年代には高まる需要に対し、ペテルスブルグ、ニューヨーク、ロンドン、パリ各国に販売の拠点を構え、1895年には念願のガラス素地工場も完成、経営面にも品質面にも更なる向上を目指す。そして1900年にルートヴィッヒは経営を息子に、ガラス製作面ではカルロヴィ.ヴァリーの職人に信頼を預け引退する。

創業以来、一貫して透明素地のガラスを作り続けていたモーゼルだが、アール .ヌーヴォーの時代に入ると伝統技法を応用して新たな様式のガラスを製作する。透明ガラスの上から緑、紫といった色ガラスを被せ、写実的な草花文をレリーフカットした作品を多く展開していく。元来グラヴィールが御家芸であるから、その出来映えは言うまでも無く見事なもであった。またこの時期には「マハラニ」「マリアテレノア」「パウラ」といった現在にも続く銘品テーブルウェアが作品化され、ジョゼフ.ウルパン、ルドルフ.ヒレルなど優れた個人デザイナーが活躍した。
続くアール .デコ期も、ウィーン工房のデザイナーを招聘しモダンなデザインは取り入れながら、カットやグラヴィールを基盤とした透明ガラスの伝統的装飾といったモーゼル独自のスタイルは守り続けた。また1922年には、絵付けや乳白色ガラス制作に秀でた南ボヘミアのマイヤーズ.ネッフェを買収し、技術力と生産力の向上に取り組んだ。こうしたモーゼルの姿勢は1900年のパリ万国博覧会で銀賞、1922年には世界で初めて希土酸化物を使った「貴石カラー」のガラスの開発成功、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会での金賞といった形になって表れる。

モーゼルの技巧的本領は、カリ .クリスタルの性質を生かしたボヘミア伝統の繊細なエングレーヴィングとカッティングにある。通常より非常に深く彫り込み文様を装飾する「ディープエングレーヴィング技去」は、より立体的、絵画の様に文様を表現することが出来る。またカッティングにおいても、多角形を面とりにカットし、あたかも宝石のように彫刻する「ファセット.カット」はモーゼルが得意とするところである。これら伝統技術に加え、近代に開発された貴石ガラス(色ガラス)は、調光具合や光線の種類により微妙に色彩を変化させる。これも他のガラスメーカーの追随を許さない、世界に誇る技術である。
現在においてもモーゼルはヨーロッパや北アフリカを中心に、世界中の皇族、国家元首の依頼を手掛けその信頼を不動のものとしている。それは一時的な流行に流されず、自社の誇る伝統的工芸手法に依っていつの時代も変わらぬ普遍的な価値の製品を創り続けていることにある。

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2007年3月 5日 (月)

◆ガラス工房解説 5 【Fritz Heckert】

Fritz Heckert

1866年に創業、ドイツ(プロシア)、ポーランド.チェコ(ボヘミア)、オーストリア.ハンガリー(ハプスブルグ王朝)の国境地域、シュレジア地方に工房を構える。この地域は13世紀頃から伝統的なヴァルトガラスの一大生産地域であった。しかし時々の勢力によって統治国家が二転三転したこともあり、詳しい資料が少ないガラス工房である。

創業当時は 17、18世紀の様式を模したオールドジャーマンデザインが多く作られていたが、その後アーツ&クラフト運動の影響を受け、カール.ケッピングやツヴィーゼルと共に保守的なドイツガラス産業界をリードしていく。 フリッツヘッカーはキプロスデザイン (エジプト・ペルシャ様式)の装飾を好んで用い、ゴールドギルドに更にエナメルやラスター彩をかける手法を得意としていた。アールヌーヴォー期には1900年のパリ万博で金賞を受賞したことも記録に残っている。
1900年代にはマックス.レイド、ルードリッヒ.ジュッタリーン、ウィリー.マイツェンといった著名なデザイナーを招聘、またアドルフスコープを始めとするベルリン美術学校の教授陣が後を継いだとされる。この頃はカメオガラスにグラヴィール装飾といったアール.ヌーヴォー様式を得意とし、トリノでの第1回国際現代装飾美術展に出展、銀賞を受賞するなど高い評価を得た。
1923年にシュレジアのジョセフ.インヒッテージ社らと合併、戦後もドイツのガラス業界に大きな影響を与えたが、その後工房は閉鎖、現存はしていない。

(SPECIAL THANKS / Gallery Kotetsu in Sapporo)

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◆ガラス工房解説 6 【Val.St.Lamvart】

Val.St.Lamvart

1825年ベルギー東部、リエージュ郊外のヴァル.サン.ランベール修道院跡地に創立。当時ベルギーを支配していたオランダ国王ウィリアム一世の要請によるものだった。ベルギーの独立後には、引き続き国王レオポルドー世の後盾を得て急激な発展を遂げる。その背景には、リエージュという街がドイツとオランダという中央ヨーロッパのガラス生産地国境近くにありガラス工芸が定着していた文化的要因と、近隣のボネッシュ村から良質な鉱石や豊富な石炭が採掘される、恵まれた立地的要因が下地にあったからである。
1880年頃には、フランス及びベルギーの中小のガラス工場を買収して更に成長、従業員4000人を超える世界最大のガラス工場となる。この頃の主な製品としては装飾品、テーブルウェアから鏡、板ガラスといったものまであらゆるガラス製品を生産している。生産量も世界一であったが、同時にガラス職人の積極的な招聘や、フランスのサン.ルイからの影響を受け、鉛クリスタル.ガラスの生産にも着手していった。

1890年代になると、ヴァル.サン.ランベールもアール.ヌーヴォーの影響を受けていく。それまでは伝統的な吹きガラス技法にボヘミア式カット技法で装飾したものが主流であったが、この時期に初めて型吹き手法の色被せガラスを取り入れ、それにカットを施した。文様は主に草花文様をレリーフカットしたもので、ナンシー派色の強い作品が多い。
アール .ヌーヴォー期に携わった作家、技術者は、宝飾家のフィリップ.オルヴァー、彫金作家のヴァン.ド.ヴェルド、家具作家のセルュリェ.ボヴィ、ナンシー派のミューラー兄弟、そして近代同工場の中心的人物、レオン.レドゥリュとジョセフ.シモンなど鐸々たる面々である。
引き続きアール .デコ期に入っても、レオン.レドゥリュとジョセフ.シモンを中心に色被せガラスを中心に作品が展開されていく。第一次大戦の災禍と、ベルギーでは比較的アール.ヌーヴォー様式が長く続いた為、アールデコ様式への転換が遅れたが、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会、1926年のパリ展に出展。時流に即した幾何学的な文様をカットした作品が高い評価を受けた。この時期にはほぼ独自の世界を確立し、色被せカットガラス、クリスタルカットガラス、色被せカットガラスにグラヴィール、クリスタルガラスにグラヴィールといった現在の作品様式が定着する。これらの技法においてはヨーロッパでも有数の水準を誇るものとなった。

ヴァル.サン.ランベールのガラスは芸術作品の性格を持った物は少なく、むしろテーブルウェアを中心とした実用品に比重が置かれてきた。しかしその独特の美しいカットスタイルは今なお、ヨーロッパ最高級と賞賛され、色被せガラスに様々な技巧を凝らしたスタイルには古くからの愛好家も多い。ベルギーガラス産業に偉大な足跡を残してきたこれら優れたテーブルウェアは、「ベルギーのロールスロイス」と調われ、同国王室を初め世界で愛用されている。

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◆ガラス工房解説 7 【Orrefors】

Orrefors

1898年、スウェーデン南部スモーランド地方、バルト海に面した港町カルマル近郊に設立。オレフェスとは、スウェーデン語で川を意味する「fors」と近隣の湖名の合成語である。歴史を遡ると1726年に創業した鉄工所が前身で、この地域は精製用の清水と薪となる木材に恵まれていたため、古くから鋼業所やガラス工場が集積していた。現在でもオレフェス以外にコスタ.ボダ、ベリダーラなど15ものガラス工房が集まり、ガラス王国の感を様している。
鉄工所の経営難からガラス工場に転身したオレフェスは、当初窓ガラス、瓶、インクボトルなどの日常品を生産していたが、アール .ヌーヴォー期にカメオ彫刻を施したガレ様式の作品を制作、工芸ガラス分野への先鞭をつける。

1913年には新所有者ジョアン.エィクマンとアルバート.アーリン工房責任者のもと「オレフェス・ガラス工場」と名を変え、翌年からはクリスタルガラスの生産に着手、また優秀な職人の招聘や労働環境の向上に取り組むなど、芸術と産業の両立を目指した展開期に入る。
そしてこの時期、オレフェス社の命運を担う二つの才能が招かれることになる。一人は 1916年に入社したサイモン.ガーテ、もう一人は翌年からデザイナーとなったエドワルド.ハルドである。両者共に大学では絵画、建築を専攻しておりガラス工芸とは無縁で、当時としては異例の抜擢であった。だが彼らの手により「グラール技法」「エアリエル技法」というオレフェス社独自の新技法が考案され、カッティングした有色ガラスの製作が本格的に始められる。
オレフェスはアールデコ期にコスタ社と共に北欧のガラス産業を率引、アール .ヌーヴォーとアール.デコを折衷した手法の作品や、アール.デコ調の照明器具の製作を活発に行う。この時期の作品は、従来のアール.デコ様式より穏やかな色彩や曲線を持ち、優雅な情緒性を醸し出すものが多い。透明素地に人物画などをデザインし、繊細なグラヴィールを施す作品も特徴的である。スカンディナヴィア.ファンクショナリズム(感覚的機能主義)とも呼ばれる彼らの様式は、1917年のノルウェーでの展示会で各国の注目を浴び、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会ではグランプリを受賞するまでに至る。

こうして北欧の一地方ガラス工場から世界的な知名度を得たオレフェスだが、その革新性は留まるところを知らない。第二次大戦を挟んで、ヴィッケ .リンドストランド、エドウィン.エールストレム、ウルリーカ.ヒュードマン=ヴァリエンといった現代ガラス作家の旗手とデザイナー契約を結び、次々に優れた工芸ガラス作品を生産していく。専任の芸術家によるデザインと、熟練した職人の完全な分業システムは、オランダのレールダム、フィンランドのイッタラと並び時代の先取りをし、現在も約10人の精鋭専属デザイナーを擁している。
また企業としても、 1946年にスウェーデンのもうひとつの雄、コスダ.ボダを傘下に加え(その後可度か離散集合を繰り返す)、更には1997年秋にはデンマークのロイヤル.コペンハーゲンら5社で合併、ロイヤルスカンジナビアグループを設立する。

北欧独特の機能性と合理性を共存させた、シンプルでモダンなデザインは近年ガラス産業の新勢力として世界中で人気を博している。その中でもオレフェスはスカンジナヴィアを代表するガラス工場で、常にリ一ダー的な存在である。またデザインだけでなく優れた品質も、グナ . シレーンのテーブルウェア「ノーベル」が実際にノーベル賞の受賞晩餐会で使用されていることからも折り紙つきである。

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◆ガラス工房解説 8 【Warterford】

Warterford

1783年、アイルランド南部の港町ウォーターフォードにて創立。地元の有力者、ジョージとウィリアムのペンローズ兄弟が、イングランドのガラス職人ジョン・ヒルを迎えて鉛クリスタルガラス工房を造ったのが始まりだった。イングランドでは1671年に発明された鉛クリスタルガラスにより、1720年頃からカットガラスが生産されはじめた。18世紀半ばにはカットガラスを中心にイングランドのガラス産業は進展をみせる。しかし、1777年に政府がガラスの重量加算税を制定した為、多くのガラス職人が国外へ流出した。ウォーターフォードはそれら職人の受け入れ先の一つであり、アイリッシュ.ガラスの歴史もこの時代から本格的に始まった。

当初は職人 70人程度の創業だったウォーターフォードは、テーブルウェアやシャンデリア中心に生産する。特徴である鋭角に磨がれたカッティングなどの装飾技術は高品質を誇り、19世紀前半にはイングランド王ジョージ三世からの別注を賜るなど名声を博す。また、スペインやアメリカなどへの輸出も活発に行われた。
ところが1825年に宗主国イングランドの圧力により、アイルランドの優遇税制が撤廃され、物品税の導入もなされる。これにはアイルランド産業自体が大打撃を受け、19世紀半ばには僅かを残して壊滅してしまう。ウォーターフォードも例外ではなく、無類の評判を得たにも関わらず僅か百年足らずで休業状態に追い込まれ、復活するまでにもう百年を待たなくてはならなかった。
第二次大戦後、アイルランドの独立と共にウォーターフォードも復活を果たす。以前の工場の僅か 800m隣の場所に新工場を設立しガラス製造を再開。以後テーブルウェア、シャンデリア、コンポートを中心に製作する。また近年においては、1986年にウェッジウッド社と合併、ウォーターフォード・ウェッジウッド社を設立しダブリンに本部をおく。その後ローゼンタールなども吸収、伝統と歴史の結合した高級ライフスタイル・グループ形成する。

ウォーターフォードのガラスは現在でもクラフトマンシップに溢れており、製作の工程は 200年前とあまり変わっていないとも形容される。特にカッティング技法は同杜の伝統ともいえ、鉛クリスタルの特性を良く生かしたものである。その中でも「アラーナ」に代表されるストロベリーダイヤモンドカット文様は、深い角度で繊細に掘り込まれており、高度にグラインダーを使いこなす技術が要求される。これら重厚繊細なカットに加え、クリスタル素地も鉛の含有量が30%を超える「レッド.クリスタル」を使用、透明度、輝度、重量感共に優れ、世界最高級クリスタルの源となっている。

今日においてウォーターフォードは、欧米での認知度が非常に高く、テニスやゴルフなどの世界的な大会のトロフィーに同社のグラスが使用されている。特にアメリカで圧倒的な人気を誇っており、 2004 年で販売 50 周年となった銘品「リズモア」を筆頭としたテーブルウェアは毎年のように人気リストで首位を占める。その他にもシャンデリア、オブジェ、コンポートなども高い支持を得ており、同社のコンポートが、アメリカ大統領の就任祝いにアイルランド政府から送られるのは事に有名である。
現在アイルランドのウォーターフォード郡では三つの工場が稼動、またグループ内の協力や共同開発により、中国磁器、銀製品、リネンなども新機軸として展開している。

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2007年3月 7日 (水)

◆ガラス工房解説 9 【Rene Lalique】

Rene Lalique

言う迄も無く、アールデコのみならず近代を代表するガラス工芸界の巨匠。ラリックについては研究書としても幾百の出版物が出され、簡単に解説を加えることは難しい。従って彼の極々簡単な履歴と、ガラス作家としての功績を辿ってみる事にする。

1860年 4月6日、パリの東に約120km、シャンパーニュ地方のマルヌ県アイにて生誕。
1876年 父親死去。16歳で宝飾技師ルイ.オーコックの元で働く。
1878年 ロンドンに渡り、2年間美術学校でデザインを学ぶ。
1880年 パリに帰国。二年間、宝飾デザイナーとして働く。
1882年 宝飾デザイナーとして独立、各杜にデザインを提供し活躍。
1886年 宝飾工房を買い取り、自ら実作を始める。
1889年 パリ万国博覧会に出展。(29歳)
1890年 宝飾部品として、鋳造ガラスを手掛けはじめる。
1898年 パリ郊外にガラス工房を設ける。
1900年 パリ万国博覧会に出展。その後も数々の博覧会出展や製作依頼が続く。(40歳)

ラリックはアールヌーヴォー期には宝飾デザイナーとして活躍した。1889年のパリ万国博覧会に出展し注目を浴び、その後数々の展覧会やサロンで名声を高める。1900年のパリ万国博覧会では100点以上の作品を出展し、賞賛の中で宝飾作家としての地位を不動のものとする。この頃の作品はやはりアールヌーヴォーらしく、今までの既成概念を打ち破った材質や細工を用いていた。また、彼がこの時期までに培ったデザインの技法、ガラスの製法技術は、後のガラス作家への転身の際に大きく役立つ事になる。

1908年 香水商フランソワ.コティとの共同関係が始まる。
1909年 パリ南東コーム.ド.ウィルにてガラス工場を構え、ガラス製品の生産に入る。
1911年 ガラス作品への比重が増えていく。
1912年 ガラス作品のみの展覧会を自営店で開催、この後宝飾作品の製作を放棄する。
1914年 第一次対戦勃発。同年から1918年までガラス製作を休止。


1907年、ラリックの後半生の運命を決定づける、香水商フランソワ.コティとの出会いがあった。コティはラリックに香水瓶のパッケージデザインを依頼、これを期に本格的にガラス製作に入り込む事になる。今までの一点ものの宝飾品とは違い、量産品の香水瓶という商品自体が、あたかもその後のラリックの方向性を暗示している。そして1907年を最後に、彼は宝飾作品から離れ、ガラス作家一筋に取り組むようになる。

1918年 第一次大戦終了。
1921年 アルザスロレーヌ地方に第二工場を設立。ガラス製作再開。
1925年 現在装飾美術産業美術国際博覧会出展、ガラス工芸.工業部門代表を務める。
1926年 「ルネラリック杜」設立


第一次大戦により操業休止を止むなくされたラリックだが、戦後翌年には近代設備を整えた大規模な第二工場を設立、生産を再開させる。それまでの宝飾作家としての知識と技術に加え、新たに開発した技法など全てをガラス製作に注ぎ込み、以後次々と作品を発表していく。そして 1925年のアールデコ博では工芸作品の出展以外に、自身のパビリオンの他、各パビリオンの内装、ガラス製の大噴水など室内外を問わず大規模な作品を発表、大成功を収めた。こうしてアール.デコ期を通じ、ラリックがガラス工芸界に与えた影響は限りなく大きいが、大別すると以下の通りであろう。

ラリックの革新性は、当初から品質の高い量産品を造ることを念頭においていたことに挙げられる。アールヌーヴォー期の殆どの作家達が、作品の近代化に相反して、手作り志向による一点製作主義から脱却出来ずにいたのに対し、ラリックはガラス工芸を同時に産業として捉え、自らはデザインを担当、生産は機械化された工場で、と工程を明確に分離した。ガラスの手工業的生産を近代的生産システムヘと脱却させたのである。
そして作品を大量生産とすると同時に、エミール .ガレらが築き上げた「美術工芸品」としてのガラスの価値も継承していく。デザイナーとしてラリックは、ガラスの特性を最大限に引き出し、なおかつ独創的で時代の最先端の造形を生み出していった。同時に、素地にはセミ.クリスタルガラス、成型にはプレスや型吹き、という風に、量産に適した素材や技法の開発を続け、高品質な工芸作品を生産していく。また博覧会用などに、自ら手掛ける一品製作も並行していくが、生産品とは一線を画した形で行われた。
こうした生産システムの確立により、ガラスの用途が新しい分野にも拡がっていく。異なるガラス素地や装飾のものを様々なバリエーションで大量生産出来ることで、今までには無い、未領域へのガラスエ芸の進出が可能となった。テーブルウェア、シャンデリア、花瓶といった既存の分野に加え、コンポート、モニュメント、船舶や列車、教会など室内外を問わない大規模な装飾、更にはカーマスコットに至るまで様々な領域に可能性を拡げていった。しかもそこには量産品としての品質劣化は見受けられず、優れた美術作品としての価値も並存していた。

ラリックの技法的特徴については諸誌を参考にしていただきたいが、作品の大きな特徴は素材、装飾共にガラスの透明性を最大限に活用したことであろう。素地には透明クリスタルと、半透明ないしは乳白色のオパルセント .ガラスの組み合わせを好んで多用する。色ガラスを用いる際にも色彩をぼかし、極力透明感を表現する。装飾にもサチネ、パチネといった色、光沢表現を主とした技法でガラスに更なる奥行き、立体感を与えた。こうしたラリックの作品は、光の調度で色彩、透明感、輝度が微妙に変化し、独創的な質感を持つ。そこには優れたデザインからくる造形美に加え、ガラスのみが持ちうる、重厚さ、はかなさ、神秘性などといった、素材からくる美しさも秘められていた。

1939年 第二次大戦勃発。ガラスエ場停止。
1945年 5月5日、85歳にて永眠。息子マルク.ラリックが後継となる。


アールデコ博後も精力的な制作活動を行っていたラリックだが、1939年の大戦勃発により二つの工場はドイツ軍に接収され止むなく休止、その後本格的な活動に入ることなく1945年にこの世を去ってしまう。
ラリックの築き上げた業績は、1950年代を代表する工芸作家として活躍した息子マルク、さらにその娘マリークロード・ラリックによって継続されていた。が、経営とアートディレクションを担っていたマリーは1994年に自社株を売却、1996年には完全に事業から撤退し血縁者による経営は終わりを告げた。ラリック社は現在ポシェ社の傘下に入っている。
しかしラリック社の芸術性と実用性に富んだ作品は今尚高い人気を誇っており、植物、動物、女性像などのモチーフを、クリアとフロステッドによる対比で柔らかく表現する手法は同社独特のものである。

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