2007年2月16日 (金)

■五山派及び臨済七派① 南禅寺

南禅寺(瑞竜山太平興国南禅々寺)  http://www.nanzen.com/
臨済宗南禅寺派大本山  末寺数 426
・山内塔頭 13 南禅院 天授庵 帰雲院 金地院 聴松院 南陽院 真乗院
         高徳庵 正因庵 牧護庵慈氏院 正的院
・山外塔頭 1 光雲寺


歴史沿革
南禅寺の発祥は、亀山天皇が実母大宮院の為に造営した離宮に由る。現在の別院南禅院辺りがその創建地で、禅林寺(永観堂)が近くにあった事から禅林寺殿の名がつけられた。
後に退位落飾した亀山法皇が1291年(正応4)、東福寺三世であった無関普門(大明国師)を開山に迎え離宮を「禅林禅寺」と改める。次いで実質的な開山とされる規庵祖円(南院国師)が二世住持となり、堂宇の無い寺院を整備し十五年をかけて七堂伽藍が建立された。その間に寺名も、禅林寺の南に位置することにより南禅寺と改められる。
大覚寺統天皇や足利将軍家の庇護を受け、寺格も後醍醐天皇により五山之一、次いで足利義満の時には「五山之上」とされ、京都鎌倉の禅宗寺院最高位を誇る。比叡山僧兵との兵乱なども勃発するが、夢窓疎石ら高僧が住持し寺勢は繁栄、約十万坪の境内を有する大禅刹となった。しかし二度の大火により一山焼亡、その都度再建するも再度応仁の兵乱により七堂伽藍尽く焼失、廃絶に近い打撃を受ける。

その後桃山期以降、豊臣.徳川の庇護を受け漸く再興に向かい境内を整えるに至る。現存する堂宇も殆んど同時期の移築、再建によるものである。この際の各建築物の寄進取り付け、財政面などは二百七十世住持、以心崇伝の政治的な力によるところが大きい。「黒衣の宰相」と呼ばれ、家康の腹心であった崇伝が住持となることにより幕府との関係が強まり、南禅寺は京都公家、寺社勢力の監視拠点とされた。


本坊庭園 (江戸.国名勝)
小堀遠州の作とされ、作庭時期は大方丈(清涼殿)移築後の慶長~寛永初期と考えられる。遠州は近世作庭の名手で、同時期に同別院金地院( 1629年頃)をはじめ二条城二の丸、孤篷庵(大徳寺塔頭)など多くの作庭を手掛けており、また建築家、茶人としても優れた人物であった。

南禅寺南庭は禅院式後期枯山水の典型的作風をもつ平庭で、奥行きやや深めの長方形、左手奥に遠景、右手前に近景をおき、遠景の築地塀添いを中心に石組、樹木が据えられている。これらは敷地のバランスを考え、右方に向かって組み流され、その対比として、手前の大部分が大川を意とした白砂で敷き詰めている。石組の意匠は「虎の子渡し」として有名であり南禅寺南庭はその代表とされている。
これら庭園の構成は作庭当初の意図を踏まえ、殆んど変わりなく現在に伝えているが、築地塀越しに窺えた東山の借景は、昭和期に新築された庫裏によって遮られてしまっている。


主要建築物
三門(江戸.重文) 
1628年(寛永5)、藤堂高虎の寄進。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。東福、大徳、妙心寺と同形式を持つが、特に木太く重厚な典型的禅宗式三門。江戸期にありながら中世古式を伝える。
方丈(桃山.国宝) 
大方丈は1611年(慶長16)に内裏清涼殿を下賜。豊臣秀吉が天正期頃に造営したものと思われ、単層入母屋、寝殿造。近世寝殿建築を伝える貴重な遺構である。小方丈はその背面北側にあり、伏見城の遺構とされるが確証は無い。北面は切妻、大方丈に比べ豪快な造り。大方丈の付属的性格で、内方丈的性格も持たない特殊な存在である。
勅使門(桃山.重文) 
1641年(寛永18)御所内裏の日御門を拝領、移築。檜皮葺、四脚門。造営自体は慶長期と思われ、桃山建築の特徴をよく表している。
法堂(明治) 明治42年の再建。
僧堂(大正) 大正7年の再建。
庫裏(大正) 大正8年の再建。

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■五山派及び臨済七派② 天龍寺

天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)
臨済宗天龍寺派大本山  末寺数 105
・山内塔頭 9 慈済院 三秀院 松巌寺 妙智院 寿寧院 弘源寺 宝厳院 
        永明院 等観院
・山外塔頭 2 臨川寺 金剛院


歴史沿革
この地の由来は、平安初期に嵯峨天皇の檀林皇后が檀林寺を建立したことに始まる。後に檀林寺は荒廃するが、その跡地に後嵯峨 .亀山上皇が仙洞として離宮(亀山殿)を営んだ由緒ある場所である。また後醍醐天皇が青年期に修行された因縁の地でもあった。
禅寺としての建立は、 1339(暦応2)に足利尊氏、直義が後醍醐天皇の菩提と元寇以来の戦没者供養の為の勅願寺として、近隣の臨川寺に住持していた夢窓疎石を開山とし亀山殿跡に創建したもので、武家によって京都に建てられた初めての寺院でもある。当初は北朝元号に依って暦応寺としたが、延暦寺が名称に意義を唱えた為に天龍寺と改称した。直義が金龍の夢を見たことに由るとも云う。

足利幕府の強力な庇護と天竜寺船の莫大な運上利益もあり、寺勢は繁栄を極め、塔頭子院百五十余、境域も広大な巨刹となり、寺格も室町中期には五山之一に挙げられた。また、臨川寺、清涼寺と共に一大寺院群を形成し嵯峨の都市化を促進、洛中に並ぶ都市化、経済活性化を即していった。

しかし檀越の足利家が没落し寺領も疲弊、幕府の衰退と共に寺運も衰えていく。また創建後、応仁の乱や天明の大火など兵火に遭うこと 8 回、特に 1864( 元治元 ) 、禁門の変に関し、長州藩兵の屯所となっていた為、幕府軍の攻撃に遭い、一山焼失した。現在の建物は殆んどがその後、明治から昭和期にかけての再建である。


本坊庭園 (室町.世界文化遺産 国地・特別名勝)
夢窓疎石の作とされ、作庭時期は 1340~1345年頃と推測される。亀山離宮創建時、既に池泉庭園の造られた形跡があり、禅寺に改めた際に同師の改庭が入ったと思われる。疎石は作庭の名手で、同時期に西苔寺(1339)、また甲府恵林寺、鎌倉瑞泉寺、亀山離宮(南禅院)なども手掛けたとされる。堂宇は燃亡を繰り返し創建当時の遺構は残っていないが、庭組は当初に近い形で姿を残しており鎌倉期の「作庭記」手法を現在に良く伝えている。

庭園は池泉回遊形式をとっているが実質鑑賞本位である。曹源池を中心に対岸に築山、左右両幅を広く引き、借景には嵐山、亀山を配して壮大、優美な大和絵の如しである。また滝口周辺の荒磯風石組は水墨画の如く重厚、剛健である。これら寝殿造形式と鎌倉禅宗文化を折衷、見事に融合させた点でも見事である。
曹源池中央奥に位置する滝口及び周辺の橋石、岩島群は特に見所である。現在は涸れてしまっているが、築山から流れ落ちる滝口は三段の石組からなる龍門形式。疎石独特の荒厳な石立組で北宋山水画の手法で表現されている。また滝口下の石橋組は三つの自然石で構成、日本庭園最古の自然石橋組である。前方にある岩島は三尊形式、釈迦、普賢、文殊を表している。その他にも、出島状に二つの鶴島亀島を配すなど、池泉全体の構成、石立のバランスなど見事に作り上げられている。


主要建築物
勅使門(桃山) 伏見城の遺構とされる。切妻、檜瓦葺の四脚門。山内最古の古建築。  
中門(江戸) 禅宗様の四客門。多数の改造跡か見られ、荒廃期に何度か補修されたと思われる。
法堂(江戸) 明治33年の再建。選佛場を移築したもので、その為に法堂としては異例の寄棟造。
大方丈(明治) 明治32年の再建。
小方丈(大正) 兼書院。大正13年の再建。
庫裏(明治) 明治32年の再建。 

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2007年2月17日 (土)

■五山派及び臨済七派③ 相国寺

相国寺(万年山相国承天禅寺)  http://www.shokoku-ji.or.jp/
臨済宗相国寺派大本山  末寺数 93
・山内塔頭 12 大光明寺 林光院 玉龍院 普廣院 慈雲院 慈照院 
         豊光寺 長得院 養源院 光源院 瑞春軒 大通院
・山外塔頭 3  鹿苑寺 慈照寺 真如寺


歴史沿革
足利義満の開基に由り、1382(永徳2)に花の御所(室町第)の東、内裏の北側に造営された。寺名の起源は義満の鹿苑院相国の名に由来する。義満は1367年天龍寺にて仏門に受衣しており座禅道場として建立、既に遷化していた夢窓疎石(国師)を追請開山、師と仰ぐ春屋妙葩を二世住持とした。1392(明徳3)にはほぼ堂宇も完成、八月に落慶供養が行われる。実質約四年での完成という異例の速さであるが、法堂(等持院)や方丈(畠山邸)等、幾つかは建物を移築する形で行われた。最盛期には五山の一に準じられ、七堂伽藍全てを兼ね備える威容を誇り約144万坪の境域を有していた。
完成の一ヵ月後には南北朝の統一も成るが、1394年に火災で伽藍は全焼、その後も義持、義教の代で落雷、出火、再建、造営を繰り返す。義政の代で再び旧観に復するが応仁の乱、天文の乱の兵火で再度一山焼亡、灰塵と化した。

桃山時代になり、1584 年( 天正12)から入山した西笑承兌住持により寺院再興に向かい、秀吉 . 家康らの援助を取り付けて漸く寺盛が整い始める。しかしまた火災にて建物の多くを失う。
江戸初期には後水尾上皇の寄進、庇護により、方丈(旧御殿の移築)、三重の宝塔、開山堂などが建てられるも1788年の天明の大火で法堂を除く殆んどが焼失及び被害を被った。現在の堂宇の殆どは江戸期近世以降の建築、又は修復による物である。


本坊庭園 (昭和)
本坊方丈南庭は一面白砂を敷き詰めた簡素なものであるが、正面に向唐門と法堂を配し景観に奥行きと豪快さを与えている。また方丈の北側と小書院の間に挟まれるように裏方丈庭園がある。こちらは深い谷を掘り数々の樹木を植込み、市内中央にありながら深山幽谷の景観を醸し出している。


主要建築物
法堂(桃山.重文) 
1605年(慶長10)豊臣秀頼の寄進。仏殿焼失後はこれも兼ね、本堂と証する。七間六間、重層裳階付切妻。山内のみならず、禅宗法堂では最大最古の建築物として貴重。
方丈(江戸) 
1807(文化4)の再建。南庭奥側に1841年(天保12)の平唐門有り。
庫裏(江戸) 1807(文化4)の再建。切妻妻入。
浴室(桃山) 1596(慶長元)の再建。
鐘楼(江戸) 1843(天保14)の再建、袴腰付鐘楼。大型のものでは現在有数。
経蔵(江戸) 1859(安政6)落成のもの。

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2007年2月21日 (水)

■五山派及び臨済七派④ 建仁寺

建仁寺(東山)  http://www.kenninji.jp/
臨済宗建仁寺派大本山 末寺数 70
・塔頭数 14 禅居庵 久昌院 両足院 霊洞院 興雲院 霊源院 
        西来院 大統院 堆雲院 大中院 清住院 常光院 
        護国院(開山堂) 正伝永源院
・山外塔頭  無し


歴史沿革
宋より帰朝した臨済宗の祖、栄西禅師によって 1202年(建仁2)に建立。土御門院の勅願、源頼家の開基として南宋の百丈山を摸して造営された。 鎌倉幕府の庇護下、京で最初の禅刹であり、延暦.仁和寺等と同じく格式の高い元号寺院である。(因みに黄竜派の流れを汲む臨済禅寺は日本では建仁寺派のみで、他の禅寺は黄檗宗を含め全て楊岐派である)

当初は旧仏教側の禅宗に対する反対、圧迫が強く、天台 .真言.禅の三宗建学の形で延暦寺末寺としての創建であった。創建後数度の火災に遭うが、東福寺開山円爾を十世に向え旧観に復する。また純然たる禅寺としては、宋より来日した蘭渓道隆(大覚禅師)が十一世住持として以降(1265年~)である。同時期に一時寺名を建寧寺と改めるが間も無く建仁寺名に戻す。室町期には足利幕府以外の庇護もあり、五山の三に列せられ寺盛は繁栄、最盛期には塔頭60余、荘園18ヶ所を有する大禅刹となる。また相国寺と共に禅林文芸興盛の中心を担った。

しかし、応仁の乱にて焼亡。更に 1552年(天文21)の火災にて七堂伽藍尽く類焼の憂目に遭う。法堂はこの際より再建されていない。天正年間以降(1573~)に東福寺住持安国寺恵瓊や有力武将などの援助により方丈や仏殿などが再建、復興する。現在の建物は殆んどがその後の再建である。


本坊庭園 (昭和)
加藤熊吉による昭和期の作庭。中国の百丈山から名をとり「大雄宛」という。築地塀添いに植樹と石組が見られるが、敷地の大部分が白砂敷で寝殿造南庭の趣もあり、儀式の場としての庭の要素が強い。しかし本坊方丈側からの眺めは遠景の法堂、近景の向唐門、左側の廻廊、築地塀と塀際の樹木といった白砂を囲むような配置構成が絶妙で、枯山水庭園としての趣も強い。


主要建築物
勅使門(鎌倉末.重文) 
平重盛の六波羅邸の移築と伝えられる。京内最古の総門で、矢の根痕があることから矢立門ともいう。銅版葺切妻。中央柱を棟木下迄延ばした禅宗式四脚門。
方丈(室町.重文) 
1599(慶長4)、安国寺恵瓊により曹洞宗の安芸安国寺より移築。造営は1487年。中世古建築としてだけではなく室町期曹洞宗の遺例としても貴重。室戸台風で被災後、復旧された。
三門(江戸)
大正期に浜松の安寧寺より移築。その為大禅寺では小規模、異例の三間二間二重門。
法堂(江戸) 1765年(明和2)造営。仏殿を兼ねる。一重裳腰付、入母屋、本瓦葺。

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■五山派及び臨済七派⑤ 東福寺

東福寺(恵日山)   http://www.tofukuji.jp/
臨済宗東福寺派大本山 末寺数 363
・塔頭数 25 万寿寺 退耕院 盛光院 霊源院 龍眠庵 海蔵院 勝林寺
        栗棘庵 善慧院 大機院 同聚院 霊雲院 一華院 天得院
        芬陀院 桂昌院 荘厳院 願成寺 正覚庵 光明院 永明院
        南明院 即宗院 龍吟庵 東光寺  
・山外塔頭 無し


歴史沿革
平安中期の延長年間 (923~31)、藤原忠平により同氏の氏寺として創建された法性寺を由来とする。その寺跡に摂政九条道家が開基として,法性寺を吸収する形で1236年(嘉禎2)より1255年(建長7)まで19年を費やして建立された。1243年(寛元元)には宋より帰朝したばかりの円爾弁円(聖一国師)を開山として招聘し禅刹とする。

当時栄華を誇っていた奈良の巨刹、東大、興福寺になぞらえて「東」「福」の字を取り寺号とし、天台 .真言.禅三宗兼学の寺院として26棟もの堂宇を備えた。しかし完成後約二十年の間に三度の火災によりその大部分を焼失し、1348年(貞和3)まで復興を要することになる。その間鎌倉から室町期にかけて純禅寺となり五山に列せられ、塔頭子院36を有する大禅刹となる。但し九条.二条家の氏寺であった為に足利幕府の保護は少なかった。また他の五山禅寺とは異なる点として、東福寺のみが開山以来の聖一派で住持を系譜し(他の五山派は十方住持制を採用)、東山湛照.虎関師錬.吉山明兆など多くの高僧を輩出した。

応仁の兵火にて堂宇の多くを失うが、中心伽藍は被災を免れる。戦乱が収まると豊臣秀吉や徳川家光の庇護にて復興に向かい寺観を整えた。その後近年に至るまで大きな被災も無く七堂伽藍の雄姿を誇っていたが、明治 14 年の火災により仏殿 . 法堂 . 方丈を焼失、これらはその後の再建による。しかし室町以前の古建築が多く残っており、伽藍配置もほぼ変化が無く、初期禅宗寺院の雰囲気が残された貴重な史蹟である。


本坊庭園
現代作庭の巨匠、重森三玲氏により昭和 10年代に作庭された。重森氏は庭園史研究家として鎌倉期以来の作庭法に通じ、他に龍吟庵.光明院(共に東福寺塔頭).瑞奉院(大徳寺塔頭).松尾大社など昭和の名庭を手掛けた。彼の作庭にノグチイサムが大きな影響を受けたことはあまりにも有名である。

本坊方丈四方に庭を廻らし、南庭は長細い地割りに豪快で斬新な石組、東庭は柱石を北斗七星に見立てて配する。西庭は刈込んだ皐月と砂地、北庭は苔と敷角石によりそれぞれ市松模様を表している。「八相の庭」と呼ばれるこの庭園は現代感覚のモダンさと伝統的枯山水が見事に融合され、特に距離感覚の表現手腕は絶妙である。


主要建築物
三門(室町.国宝) 
応永年間(1394~1428)足利義持の再建。禅宗寺院日本最古の三門。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。組物の基本構成は大仏様、外観は唐様と、両方を併せ持つ珍しい建造方式で、建立時の姿が再建時にも踏襲されたものと思われる。
禅堂(室町.重文) 
1347年(貞和3)頃の再建と思われ、現存する僧堂の中で唯一の中世禅堂遺構。七間四間、一重裳階付切妻、本瓦葺。これも唐様と大仏様の両様式を持つ。
東司(室町.重文) 
室町期唯一の東司遺構。禅宗寺院便所の古形式として類例が無く非常に貴重。七間四間、一重切妻。内部の施設は失われている。
総門(鎌倉.重文) 
本瓦葺、四脚門の総門。北条氏の六波羅庁のものを移築したとされ、通常六波羅門と呼ばれる。
浴室(室町.重文) 
1459年(長禄3)再建、これも禅寺建築物の遺構として貴重。内部は蒸し風呂形式。
月下門(鎌倉.重文) 
円爾弁円の仮庵の普門院を移築したとされる。切妻造、檜皮葺の小柄な四脚門。
偃月橋(桃山.重文) 
1603年(慶長8)建造、秀吉の侍女孝公尼の寄進による。木造単層切妻、桟瓦葺。
開山堂(江戸.重文) 
1823年(文政6)再建。屋上に閣を持つ珍しい建築。

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■五山派及び臨済七派⑥ 万寿寺

万寿寺 (廃絶 現在.東福寺特別寺格塔頭)

歴史沿革
万寿寺発祥の事由は白河天皇皇女郁芳門院の御堂を浄土教の皇室寺院とした六条御堂を初めとする。その後 1261年(文応2)、同寺住持であった十地覚空.東山湛照が東福寺開山円爾弁円に帰依し、東山が開山となり三宗兼学の禅宗寺院に改めた。1273年(文永10)に火災に見舞われるも東山が禅宗様式の七堂伽藍を造営、14世紀初めには入宋僧南浦紹明が入寺し純禅様とした。室町期には足利幕府により十刹之六、次いで五山之五に列せられ寺運は興盛していった。しかし1434年(永享6)には市中大火により再び類焼、堂宇再建をするも応仁の乱で焼亡、衰退していき中絶に至る。

天正年間 (1573~92)に同じ開山の所縁により、東福寺北側の三聖寺内に移転復興する。寺名を併称する二寺並立の形となり近代に及んだが、明治期に三聖寺は廃寺となり万寿寺名が残ることとなった。
元来の万寿寺寺地は現在の下京区万寿寺通高倉付近であった。しかし旧寺領は失われ、現存する遺構は皆無の為に資料には乏しい。

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2007年2月22日 (木)

■五山派及び臨済七派⑦ 大徳寺

大徳寺(宝竜山) 
臨済宗大徳寺派大本山 末寺数201 
・山内塔頭 24 徳禅寺 龍翔寺 如意庵 真珠庵 養徳院 龍源院 大仙院 
         興臨院 瑞峯院 聚光院 総見院 黄梅院 三玄院 正受院 
         大慈院 高桐院 玉林院 大光院 龍光院 芳春院 孤篷庵 
         龍泉院 来光寺 雲林院
・山外塔頭 無し

歴史沿革
創建は1315年(正和4)、播磨守護の赤松則村が叔父である宗峰妙超(大燈国師)に帰依し、小庵を寄進したことに由来する。かつて平安期に淳和天皇の離宮(その後藤原道長ゆかりの雲林院となる)のあった由緒地である。
その後花園上皇より印宣を賜り、翌1326年(嘉暦元)に法堂の完成により正式に大徳寺となった。妙超の営んだ小庵大徳庵にその名を起源する。妙超は徹底した修禅を第一とした宋朝禅を唱え、寺の世俗的興盛を厳しく戒した。その禅風に花園上皇の帰依をうけ、後醍醐天皇からは「本朝無双之禅苑」の宸筒を賜るなど、五山の上位に列せられた。 
しかし新政崩れ足利幕府の時代になるとその関係を嫌われ、直義.義満から寺格を落とされるなど不遇を受ける。その中で1431年(永享3)自ら五山を脱し「林下」とよばれる在野の精神を持つ独特の禅風を培った。
その後応仁の兵乱など二度の大火により多くの伽藍を焼失するが、堺に戦禍を避けていた47世一休宗純により、堺の豪商や千利休など堺の町衆の援助を取り付け、同寺に帰依していた有力武将の支援もありを再興していく。
また、戦国期以降、豊臣秀吉が信長の葬儀を挙行、利休の大徳寺三門事件や、沢庵住持の流罪や後水尾天皇の譲位にまで発展した紫衣事件など歴史の舞台に登場する。

現存する堂宇は殆んど江戸寛永期の再建のものであり、現在、妙心寺と共に最も充実した禅宗伽藍を構える。また、本坊以外にも塔頭24を数え、壮大な規模を誇る。また、一休宗純に始まる茶の湯文化発祥の場としても著名である。利休、宗旦以来三千家との関わりも厚く、小堀遠州など茶人ゆかりの塔頭も多い。


本坊庭園(江戸.国特別名勝.史跡)
作庭者については「大徳寺誌」で百六十九世天佑和尚の作とされているが資料に乏しく、また作風から小堀遠州の名も挙げられるが、現在も確定されておらず不明である。時期については本坊方丈が建築された1636年頃(寛永年間)のものと思われる。
庭園は方丈の南面(主庭)と東面(側庭)の二つの平庭よりなる。南庭は築地塀添いに植樹と石立を廻らせ、白砂の敷地に大部分を割いた、後期枯山水の代表的形式である。この点では南禅寺方丈庭園と類似しているが、右手前に流れる近景を、白砂の中に配した庭石と周辺の苔、あるいは中央に置かれた砂盛と背後の向唐門といった要素により、全体の構成を中央に寄せている点が大きく異なる。
東庭は細長い長方形で、これも違った形での枯山水の典型である。奥行きのかなり浅い中、二重の刈込みの下に七五三の石組を列しているが、高さの平均値や逆末広がりといった構成を見事な遠近方法で表している。更に低い生垣からは,比叡山を望見し借景とし、あたかも真珠庵(大徳寺塔頭)と円通寺を併せ持ったかのようである。但し周辺の都市化に伴い、外界を遮断する為に生垣は高く繁らされ、借景は見難くなっている。


主要建築物
三門(桃山.重文) 
1592年(享禄2)に建立、但し一階部分のみの完成で二階は1589年(天正17)に千利休の寄進により完成。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。禅刹では東福寺に次ぐ古建築。
法堂(江戸.重文) 
1636年(寛永13)稲葉正則の寄進。現存する中では非常に大規模な法堂。七間六間、一重裳階付。典型的な禅宗様で、尚且つ法堂としての役割的性格をよく表している。
方丈(江戸.国宝) 
1636年(寛永13)後藤益勝の寄進。開山の三百年遠忌に際して建てられた。一重、入母屋で前後八室、奥に塔所のある特殊な形式。方丈南面に建つ唐門(国宝)は、明治期に勅使門西より移築。本願寺、豊国神社の唐門と共に、桃山の三唐門と謳われる貴重な遺構。
仏殿(江戸.重文)
1665年(寛文5)京の豪商那波屋常有による寄進。五間五間、入母屋、一重裳階付。禅宗様の仏殿であるが細部にはごく一部大仏様も混じっている。主要伽藍では最後の完成建築物。
勅使門(桃山.重文) 
諸説あるが、おそらく慶長期に内裏の御唐門を下賜されたもの。桧皮葺、左右切妻の四脚向唐門。桃山期の様式をよく伝えており、重厚。
庫裏(江戸.重文)

1636年(寛永13)の改修。方丈新築にあたり、旧方丈の古材を使用された。切妻と入母屋の複合で、平入側に唐破風の付く珍しい形式。

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■五山派及び臨済七派⑧ 妙心寺

妙心寺(正法山)
臨済宗妙心寺派大本山 末寺数約3400 
・山内塔頭37  雲祥院 海福院 金牛院 玉龍院 桂春院 衡梅院 光國院 
          雑華院 春光院 慈雲院 寿聖院 聖澤院 退蔵院 大心院 
          大雄院 大龍院 大法院 大通院 智勝院 長慶院 長興院 
          通玄院 天祥院 天授院 天球院 東林院 徳雲院 東海庵 
          如是院 蟠桃院 福寿院 養源院 養徳院 龍泉庵 隣華院 
          麟祥院 霊雲院 
・山外塔頭10  慧照院 龍華院 春浦院 龍安寺 西源院 大珠院 霊光院 
          多福院 仙寿院 金台寺


歴史沿革
元来、花園法皇の離宮であったが、同法皇の発願に由り1342年(康永元)に禅刹に改められた。大徳寺一世妙超の弟子、関山慧玄を開山に招聘し、当初は大徳寺に属する一子院としての創建であった。開基である花園法皇は同時に方丈後方に玉鳳院を建立、起居の場とし塔所とした。
しかし1359年(応永6)大内義弘の乱に際し、当寺が義弘の檀越であった為に足利義満により寺領没収、青蓮院に付与。その後南禅寺の付与となり一時中絶するに至る。暫くして南禅寺側の協力、細川家の援助もあり1432年(永享4)に大徳寺36世日峰宗舜を迎え中興。漸く再建へと向かうが、応仁の兵火により堂宇焼亡する。その後土御門天皇の論旨のもと細川勝元.政元親子や今川.武田.織田ら有力武将の援助により再興。
五山派の寺院が檀越の足利家没落により衰退していくのに対し、「林下」であった妙心寺は多くの戦国武将の帰依を受け寺勢を伸ばしていった。永正期には念願叶い、遂に大徳寺の末寺からの独立も果たす。その後も石田光成.福島.前田.池田など有力大名の帰依を受け、境内には多くの塔頭が建立され時運は隆盛する。最盛期には83もの塔頭を数え、そのうち武将の建立した塔頭は実38を数えた。

桃山から江戸初期にかけては七堂伽藍もほぼ整備され、現在に於いても近世禅宗寺院として最もよくその姿を残し、規模も最大を誇る。塔頭も今なおその数40余を有する。因みに今日の臨済宗で妙心寺派は総寺院数の約六割を占め、最大宗派である。


本坊庭園(江戸.国史跡・名勝)
作庭者、作庭時期共に詳細は不明であるが、大方丈、小方丈庭園共に本坊方丈の再建された直後の作庭と思われる。両庭それぞれ、各方丈の性格と相まってその姿は趣を異にしているが、いずれも平庭で南面に位置し、建物との調和が見事に取られている。
大方丈庭園は平庭一面が苔敷で寝殿造南庭の様式を汲み、公的儀式の為の色合いが強い。老松を二本相対して配しただけの、他に一切の木石を用いない簡潔な構成は静粛さも感じられる。その東側に位置する小方丈庭園は、やや狭めの平庭枯山水で、中央に野筋を立て三尊石と立石を組んだものである。こちらも簡素な形式で、飛石なども打たれ露地的な要素もあるが、小方丈の性格上居住の庭といった趣が強い。


主要建築物
三門(桃山.重文)
1599年(慶長4)建立。造営時期的から見ても、大徳寺三門と類似するところが多い。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。純禅宗様の近世三門の代表例である。
仏殿(江戸.重文)
1827年(文政10)開山の三百年遠忌に際して建てられた。山内の主要伽藍では最も新しい。五間五間、入母屋、一重裳階付。典型的な禅宗様仏殿。
法堂(江戸.重文)
1657年(明暦10)造営。現存する最大規模の法堂で七間六間、入母屋、一重裳階付。仏殿より更にいっそう禅宗様式に沿った造りになっている。 
方丈(江戸.重文) 
大方丈は1654年(承応3)の改築、一重、入母屋、桧皮葺。本坊方丈らしく大規模だが、三室前後並列の簡潔な造りである。小方丈は本来、開山塔頭玉鳳院の方丈で1656年(明暦2)現在の大方丈東側に移築された。専属の庫裏を持つなど機能的な独立性が強く、内方丈的住居性格を色濃く持つ希少な遺構。
庫裏(江戸.重文) 1653年(承応2)上棟。一重、切妻妻入。巨刹の中でも特に大規模な庫裏である。
浴室(江戸.重文) 1656年(明暦2)の再建。江戸初期の建築様式をよく伝えている。
勅使門(桃山.重文) 桃山期の建築。切妻、桧皮葺四門脚。 雄大な蟇股が見られる。          

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2007年2月23日 (金)

■禅宗建築 伽藍概要

●伽藍配置

日本における禅宗寺院建立は中国南宋期の五山首位、径山万寿寺を模範とするところに始まる。その魁が鎌倉に造営された建長寺であり、その後の日本禅宗建築の基礎となった。鎌倉期に記された「建長寺指図(1331.元弘3)」から覗える主要な建築物の伽藍配置の特徴を表すと以下のようになる。

・ 総門、三門、仏殿、法堂が中心線上に配置。
・ 三門と仏殿間には参道を挟んで東に庫裏、西に僧堂が左右均等に配置。
・ 総門と三門間には参道を挟んで東に浴室、西に西浄が左右均等に配置。
・ 総門から仏殿に至る中央の参道には、左右に植樹(槇柏)が行われている。
・ 仏殿の奥やや東寄りに方丈が設けられている。
・ 境内のかなり離れたところに塔が設けられている。

これらの特徴はその後建立された円覚寺、東福寺といった創成期の禅宗寺院にもほぼ全て当てはまり、以後の大禅刹造営の範となる。但し火災や兵乱などの憂目により、創建時の寺観を留めている伽藍配置や堂宇は極めて稀である。



●七堂伽藍 役割と推移

禅宗寺院の規模の典型に適った堂宇のことを七堂という。ただ「七」は実際の数ではなく、各堂など諸堂宇を全て備えていることを表す。最も古い文献 ( 「尺素往来」 1400 年代 .一条兼良著 ) には以下のような建造物が揚げられている。   
      《 山門  仏殿  法堂  庫裏  僧堂  浴室  西浄 ( 東司 )》
また、これらの各堂宇を人体に準えて、その重要性を説明している場合もある。その他にも禅宗寺院における代表的建造物として、方丈、総門、鐘楼、経蔵などがある。

仏殿 
本尊を祭る仏堂。禅宗以外の古代寺院の金堂 . 本堂にあたる。伽藍の中心的存在あり、多くが方五間、一重裳階付と大規模である。但し五山寺院では戦乱や焼失により中世の遺構を残している寺院は無く、近世以降に再建され法堂と兼ねる場合が多い。法堂との兼用の場合、本堂と呼ばれているものもある。

法堂
経典、講義の聴講など仏法を講じる堂。「ほっとう」と読み、古代寺院の講堂にあたる。仏殿の後方に位置し、同格ないしはそれ以上の規模を持つ。一重裳階付が一般的。但し戦乱 . 火災等で焼失した後、殆どが再建されずに仏殿と兼用されている。本来の意で現存する法堂は、相国寺 . 大徳寺 . 妙心寺のみである。

山門 
仏殿前にある門。古代寺院の中門にあたる。大寺院では五間三戸、二階二重門形式の大きい規模を持つ。禅宗寺院でのみ、仏道修行の悟りを示す三解脱 ( 空、無相、無作 ) の門の意と略として三門ともする。現存するものは東福寺を除き、桃山 . 江戸期の再建である。

方丈
禅宗寺院において住持の居住、常駐する建物。伽藍の後方に建てられる。前方丈と内方丈があり、単に方丈と記されている場合、前方丈のことである

前方丈  大方丈 . 路寝ともいう。公の場で長老住持が接衆教化を行う場所。法堂的性格を持つ。だが塔頭の発達により教化の場を譲り、檀那応接や客殿的な場へと変わっていく。また小方丈の消滅により世譜住持の住居として、小方丈 . 庫裏的機能を持つ寺院も現れた。
内方丈  小方丈 . 小寝ともいう。私の場として住持が常住する場所で僧堂的性格を持つ。だが塔頭方丈の発達、私院化が進み、住持の住居的性格は塔頭方丈に移っていく。その為小方丈は早い時代にし衰退し姿を消すか、ないしは書院、客殿へと姿を変えていく。
 
僧堂 
僧侶が集団で起居する生活の場、及び座禅など修行する堂。禅堂 . 選仏場ともいう。古代寺院の僧房にあたる。中世以降、塔頭の発達により住居としての役割を塔頭方丈に譲っていくことになり、姿を消していく。残った物も選仏場として専化して機能をしていく。僧堂も中世のものは殆どが現存せず、禅寺としては東福寺を残すのみである。また近代以降では、新たに塔頭内に建設される場合が多い。
 
庫裏 
方丈に属する形で立し寺院の台所、貯蔵庫の役割を持つ。庫裡 . 庫院ともいう。切妻造妻側が参内を向いている事が多く、大きく独特の威容が覗える。近世、塔頭の発達により塔頭方丈が前方丈化し、庫裏は禅僧の居住性を持つようになる。また僧堂の衰退とともに食堂、喫飯の場ともなり、その役割も変化していく。やがて寺務局として寺院運営を主とする総合施設となっていく寺院も多く出現する。中には庫裏内の座敷が特化して書院、客殿となった所もある。

総門 
日常普通に使用される通用門。中門ともいう。勅使門の東側の並列されていることが多い。

西浄 
禅宗寺院内の便所。東司ともいう。実用的建築の為、現存する物は稀である。禅宗においては日常生活も修行の一部であり、浴室と共に重要視された伽藍の一つ。

浴室 
禅宗寺院内の浴室。現在の浴室とは異なり蒸し風呂形式であった。これも遺構は稀である。

鐘楼 
梵鐘を吊るす建物。中世の古建築のものは現存しない。普通袴腰付形式である。

経蔵 
経典を収めておく書庫。禅宗創期の伽藍配置では、山門の脇が常とされていたが、現在ではそれぞれ独立して建てられている。屋根の高い裳階付の輪蔵形式。

勅使門 
天皇、上皇の御幸の際など、特別の来賓を招く際に開かれる門。その為御幸門ともいう。通常は三門 . 仏殿の中心線上正面にあることが多い。総門の西側に位置する。

開山堂 
開山(祖師)の墓塔。祖師堂ともいう。仏殿内に内置されている場合もある。また方丈と兼ねている場合、昭堂 .礼堂ともいう。が主である。

放生池 
不殺生戒を重視し鳥獣を供養する為に設けられた境内の池。旧暦の 8 月 15 日に池に魚を放ち供養する営みを放生会という。

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  【主要伽藍の役割推移】
    (クリックして拡大)


               

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【現存する主要伽藍の造営時期】
   (クリックして拡大)




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■五山十刹 解説

●五山十刹

臨済禅寺の寺格を表す言葉で、上位に五山、次いで十刹、その下に諸山が置かれた制度。南宋の径山.霊隠.天童.浄慈.育王の名刹を五山とする官寺制度に倣ったものである。また寺格の権威選定だけではなく、法流に拘らず高僧を招聘し住持とする制度(十方住持制)でもあった。但し不変の寺格制度ではなく、歴代天皇、幕府将軍の権勢により順位は変動していく。
日本では鎌倉幕府により先に鎌倉五山が定められたが、幕府の滅亡、建武中興の失政等があり、数次の寺刹選定.寺格の変更を経緯して定着する。最終的には足利義満が鎌倉五山と共に京都五山を定め、更に南禅寺を「五山之上」の格付けとした。以後五山は京都優位となりこれを基準として踏襲される。同様に十刹も京都、関東に区別して定められるようになった。
但し「十」は実際の数ではなく、最も多い際には四十六の寺院を数える。また十刹同様、五山の下に諸山、京都.鎌倉尼五山も備えられた。しかし現在、五山の万寿寺は遺構が細々と残るのみで既に現存しない。また十刹も多くが廃寺となっている。


変遷 

鎌倉後期  北条貞時.高時により建長寺.円覚寺.寿福時.浄智寺.浄妙寺が五山の称号を与えられる。

1299(徳治2)  京都南禅寺もこれに列せられる。

1333(元弘2)  後醒醐天皇により京都大徳寺が五山之一に加えられる。  

建式年間(1334~1336)   後醒醐天皇が以下の寺位を定める。但しこの間、大徳寺が五山之上、建仁寺が五山之一となったり、不確定である。

 ・五山   第一南禅寺  準第一大徳寺  第二東福寺  第三建仁寺  第四建長寺  第五円覚寺

1341(暦応4)  足利直義が八寺を五山、他十寺を十刹と定める。(扶桑五山記)

 ・五山  
  第一建長寺・南禅寺 第二円覚寺・天龍寺 第三寿福寺 第四建仁寺 第五東福寺 次位浄智寺                                  

 ・十刹  
  第一浄妙寺(鎌倉) 第二禅興寺(鎌倉) 第三聖福寺(福岡) 第四万寿寺(京都) 第五東勝寺(鎌倉)       
  第六万寿寺(鎌倉) 第七長楽寺(上州) 第八真如寺(京都) 第九安国寺(京都) 第十万寿寺(大分)

1358(延文3)頃 寺格改定。  
       
 ・五山  
  第一建長寺・南禅寺 第二円覚寺・天龍寺 第三寿福寺 第四建仁寺 第五浄智寺・浄妙寺 
  次位東福寺・万寿寺

 ・十刹  
  第一禅興寺(鎌倉) 第二聖福寺(福岡) 第三東勝寺(鎌倉) 第四万寿寺(鎌倉) 第五長楽寺(上州) 
  第六真如寺(京都) 第七安国寺(京都) 第八万寿寺(大分) 第九清見寺(駿河) 第十臨川寺(京都)

1380(康暦2)  鎌倉五山と共に京都五山を区別。

1386(至徳3)  足利義満により以下の寺位が最終的に定められた。自ら創建した相国寺を五山に列する為,別格の五山之上を定める。(カッコ内は現在廃寺)

 ・五山之上  南禅寺
 ・京都五山  第一天龍寺 第二相国寺 第三建仁寺 第四東福寺 第五(万寿寺)
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鎌倉五山  第一建長寺 第二円覚寺 第三寿福寺 第四浄智寺 第五浄妙寺
                          
 ・京都十刹  第一(等持寺) 第二臨川寺 第三真如寺 第四(安国寺) 第五(宝幢寺)
          第六(普門寺) 第七(広覚寺) 第八妙光寺 第九大徳寺 第十龍翔寺

 ・関東十刹  第一(禅興寺) 第二瑞泉寺 第三(東勝寺) 第四(万寿寺) 第五(大慶寺)
          第六(興聖寺) 第七東漸寺 第八(善福寺) 第九(法泉寺) 第十長楽寺
         
 ・京都尼五山  第一(景愛寺) 第二(檀林寺) 第三(護念寺) 第四(恵林寺) 第五(通玄寺)  
 ・鎌倉尼五山  第一(太平寺) 第二東慶寺 第三(国恩寺 第四(護法寺) 第五(禅明寺)

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