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2007年4月29日 (日)

◆ヴェネチアンガラス

15世紀から18世紀にかけてヨーロッパガラス工芸の主役となり、特にルネサンス期の15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎え、ガラス市場をほぼ独占した歴史的なガラスの生産地域。同時に各国のガラス工芸にも大いなる影響を及ぼした。ただ、ヴェネチアという都市の形成自体が未だ解明されていない為、起源については定かではなく不明な点が多い。古代ローマ帝国の吹きガラス技術がこの地で継承されていたと思われ、7~8世紀頃になるとその頃のガラス工房跡やガラス片が出土しており、ヴェネチアにガラス製作が定着していたことが判る。また982年には、既にガラス専門の職人のいた文献が残っている。

ガラス産業が大きく発展を遂げるのは、ヴェネチア共和国が地中海貿易などにより政治、経済的に急成長をした 13世紀からである。地中海交通の要であると同時に、西欧、東欧文化の合流点でもあるヴェネチアは工芸文化においても様々な様式を取り入れることが出来た。1224年にはガラス職人組合の存在が、1271年には組合規約の制定が確認される。またこの頃から原材料の管理や操業期問の規定など政府の介入が強化されていった。
そして 1291年にヴェネチアン.ガラス産業における画期的な決定がなされる。ヴェネチア本島の全ての工房が強制的にムラーノ島へ移転させられ、本島市街地での窯の建設が禁止されたのである。当時まだ木造が主流だったヴェネチアの街を火災から守る為と、ガラス職人の国外流出を防ぎガラス製法が漏れないよう監視する為であった。これらの事から、既に同時代、ガラス製造はヴェネチアの重要な基幹産業であった。13~14世紀のガラス製品となると遺例は稀だが、それでもドイツ、ユーゴスラビア、ハンガリーなどでヴェネチアのガラス片が発見されており、各国に輸出されていたことがわかる。

15世紀に入りヴェネチアンガラスは黄金期を迎える。ルネサンス期を背景にしたこの時代の主流は、色ガラスとエナメル彩による技法であった。器の形は金属食器を模したステムの付いた酒盃形状のものが多く、色とりどりのガラスにイスラム色の強い文様が絵付けされた。また6世紀以降ヴェネチアンガラス文化が更に開花する技法の下地もこの時期に開発される。「クリスタッロ」「ラッティモ」の登場である。
クリスタッロ (ヴェネチアン.クリスタル)とは、従来になかった無色透明のガラスで、原料に消色材の酸化マンガンを加える事により透明度が格段に高まり、当時では「水晶のよう」と賞賛されこの名が付いた。ラッティモは当時輸入され人気の高かった中国磁器を模した乳白色のガラスであり、原料に酸化錫などを加え白濁させた。両者ともこの時代では金、エナメル彩による装飾が行われたが、やがてレース.ガラスヘの技法へと結びついていく。

16世紀になると前述したクリスタッロが主流となり、無装飾の物や、ダイヤモンドポイントで点、線刻したものなど透明性を生かしたものが作られ始めた。そしていよいよレースガラスの発明がされる。クリスタッロに細いラッティモの線文様を組み込んで繊細なレース状の文様(フィリグラーナ)を創り出すものである。平行文様(ア.フィーリ)、網目文様(ア.レティチェロ)、ねじれ文様(ア.レトルトーリ)の三種の文様を巧みに使いこなす高度な技術は、ヴェネチア.ガラス職人の秘法中の秘法とされた。また形状も、ガラス独特の線的な美しさと薄さ、軽さを結びつけた優雅で幻想的なものが主になっていく。
この時代にヴェネチアンガラスの興隆は正に極まり、ヨーロッパ市場の 90%以上を独占するほどの繁栄を見せた。以降、北ヨーロッパの各地で「ファソン・デ・ヴェニーズ」と呼ばれるヴェネチアンタイプの模造品が多く作られ、中には逃亡したヴェネチアの職人の手になる物もあり現在でも判別不能ものも少なくない。古文献によるとムラーノ出身のガラス職人はベルギー、オランダ、ドイツ、フランス、更にはスゥエーデンにまで移住が確認できる。それほど、この時代にヴェネチアガラスが与えた影響はただならぬものだった。

ヴェネチアングラスの技巧的特性は原料のソーダガラスに起因する。ソーダ灰を用いて作られるこのガラスは、後に発明されるカリガラスや鉛クリスタルガラスに比べ透明度や硬度は低い。しかし溶融中の可塑状態が長い為、宙吹きの手法に適している。また、ピンサーなどで摘んだり、形状を整えたり、他の溶融中のガラスと接合するなど、自在に成形することが可能である。これらの特性とクリスタッロの透明性を充分に生かして、ヴェネチアのガラス職人は軽業師の妙技(ア.マーノ.ヴォランテ)と謳われる装飾技術を築き上げていった。
17世紀に入るとバロック期の時流とも相まって、職人による名人芸とも言える技巧は華美なものとなっていく。ステム部には色ガラスが用いられ、幾つもの細かいパートを使い、龍、鳥の翼、花など動植吻を具象化して装飾したフリューゲルグラスなどが盛んに創り出されたが、奇抜さや意匠を凝らせば凝らすほど実用性は薄れていった。レースガラスは引き続き花形的存在であり、さらに複雑化した羽毛文様(ア.ペンネ)も登場する。但しファソン・デ・ヴェニーズは各地で増々盛んになり、ヴェネチア国家自体の弱体化も相まって次第にその独占市場を脅かされていく。

17世紀後半以降、ボヘミアを初めドイツ、イギリスの台頭によりヴェネチアンガラスの影響力も徐々に薄れていく。特にボヘミアのカリ.クリスタルガカスはヴェネチア伝統のソーダグラスに比べ、透明度、輝度、硬度に優れておりグラヴィールやカッティングの技法に適していた。その流行の影響に伴い、以前とは逆にヴェネチアでボヘミア様式(アド.ウーゾ.ディ.ボヘミア)のガラスを生産することにもなる。
その後、ヴェネチアンガラスの工房は再び本来自分たちの持つ技法の再構築と更なる洗練化によって失地回復を試みる。また新分野として大型の鏡とシャンデリアの製作では、ヴェネチア独自の技巧を凝らした装飾性の高さで高い人気を博した。
だが 1797 年にナポレオン率いるフランスに占領されヴェネチア共和国は解体、 1806 年のガラス職人組合の廃止によって工場も廃れ、ひとまず歴史を終える事となる。その後オーストリアに、そして新興国イタリアに統合されるヴェネチアのガラス産業の再出発は、モザイクガラスの制作やルネサンス期作品の複製などで新風を吹き込む 19 世紀後半のムラーノ復興運動まで待たなくてはならない。

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