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2007年3月 5日 (月)

◆ガラス工房解説 5 【Fritz Heckert】

Fritz Heckert

1866年に創業、ドイツ(プロシア)、ポーランド.チェコ(ボヘミア)、オーストリア.ハンガリー(ハプスブルグ王朝)の国境地域、シュレジア地方に工房を構える。この地域は13世紀頃から伝統的なヴァルトガラスの一大生産地域であった。しかし時々の勢力によって統治国家が二転三転したこともあり、詳しい資料が少ないガラス工房である。

創業当時は 17、18世紀の様式を模したオールドジャーマンデザインが多く作られていたが、その後アーツ&クラフト運動の影響を受け、カール.ケッピングやツヴィーゼルと共に保守的なドイツガラス産業界をリードしていく。 フリッツヘッカーはキプロスデザイン (エジプト・ペルシャ様式)の装飾を好んで用い、ゴールドギルドに更にエナメルやラスター彩をかける手法を得意としていた。アールヌーヴォー期には1900年のパリ万博で金賞を受賞したことも記録に残っている。
1900年代にはマックス.レイド、ルードリッヒ.ジュッタリーン、ウィリー.マイツェンといった著名なデザイナーを招聘、またアドルフスコープを始めとするベルリン美術学校の教授陣が後を継いだとされる。この頃はカメオガラスにグラヴィール装飾といったアール.ヌーヴォー様式を得意とし、トリノでの第1回国際現代装飾美術展に出展、銀賞を受賞するなど高い評価を得た。
1923年にシュレジアのジョセフ.インヒッテージ社らと合併、戦後もドイツのガラス業界に大きな影響を与えたが、その後工房は閉鎖、現存はしていない。

(SPECIAL THANKS / Gallery Kotetsu in Sapporo)

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◆ガラス工房解説 6 【Val.St.Lamvart】

Val.St.Lamvart

1825年ベルギー東部、リエージュ郊外のヴァル.サン.ランベール修道院跡地に創立。当時ベルギーを支配していたオランダ国王ウィリアム一世の要請によるものだった。ベルギーの独立後には、引き続き国王レオポルドー世の後盾を得て急激な発展を遂げる。その背景には、リエージュという街がドイツとオランダという中央ヨーロッパのガラス生産地国境近くにありガラス工芸が定着していた文化的要因と、近隣のボネッシュ村から良質な鉱石や豊富な石炭が採掘される、恵まれた立地的要因が下地にあったからである。
1880年頃には、フランス及びベルギーの中小のガラス工場を買収して更に成長、従業員4000人を超える世界最大のガラス工場となる。この頃の主な製品としては装飾品、テーブルウェアから鏡、板ガラスといったものまであらゆるガラス製品を生産している。生産量も世界一であったが、同時にガラス職人の積極的な招聘や、フランスのサン.ルイからの影響を受け、鉛クリスタル.ガラスの生産にも着手していった。

1890年代になると、ヴァル.サン.ランベールもアール.ヌーヴォーの影響を受けていく。それまでは伝統的な吹きガラス技法にボヘミア式カット技法で装飾したものが主流であったが、この時期に初めて型吹き手法の色被せガラスを取り入れ、それにカットを施した。文様は主に草花文様をレリーフカットしたもので、ナンシー派色の強い作品が多い。
アール .ヌーヴォー期に携わった作家、技術者は、宝飾家のフィリップ.オルヴァー、彫金作家のヴァン.ド.ヴェルド、家具作家のセルュリェ.ボヴィ、ナンシー派のミューラー兄弟、そして近代同工場の中心的人物、レオン.レドゥリュとジョセフ.シモンなど鐸々たる面々である。
引き続きアール .デコ期に入っても、レオン.レドゥリュとジョセフ.シモンを中心に色被せガラスを中心に作品が展開されていく。第一次大戦の災禍と、ベルギーでは比較的アール.ヌーヴォー様式が長く続いた為、アールデコ様式への転換が遅れたが、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会、1926年のパリ展に出展。時流に即した幾何学的な文様をカットした作品が高い評価を受けた。この時期にはほぼ独自の世界を確立し、色被せカットガラス、クリスタルカットガラス、色被せカットガラスにグラヴィール、クリスタルガラスにグラヴィールといった現在の作品様式が定着する。これらの技法においてはヨーロッパでも有数の水準を誇るものとなった。

ヴァル.サン.ランベールのガラスは芸術作品の性格を持った物は少なく、むしろテーブルウェアを中心とした実用品に比重が置かれてきた。しかしその独特の美しいカットスタイルは今なお、ヨーロッパ最高級と賞賛され、色被せガラスに様々な技巧を凝らしたスタイルには古くからの愛好家も多い。ベルギーガラス産業に偉大な足跡を残してきたこれら優れたテーブルウェアは、「ベルギーのロールスロイス」と調われ、同国王室を初め世界で愛用されている。

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◆ガラス工房解説 7 【Orrefors】

Orrefors

1898年、スウェーデン南部スモーランド地方、バルト海に面した港町カルマル近郊に設立。オレフェスとは、スウェーデン語で川を意味する「fors」と近隣の湖名の合成語である。歴史を遡ると1726年に創業した鉄工所が前身で、この地域は精製用の清水と薪となる木材に恵まれていたため、古くから鋼業所やガラス工場が集積していた。現在でもオレフェス以外にコスタ.ボダ、ベリダーラなど15ものガラス工房が集まり、ガラス王国の感を様している。
鉄工所の経営難からガラス工場に転身したオレフェスは、当初窓ガラス、瓶、インクボトルなどの日常品を生産していたが、アール .ヌーヴォー期にカメオ彫刻を施したガレ様式の作品を制作、工芸ガラス分野への先鞭をつける。

1913年には新所有者ジョアン.エィクマンとアルバート.アーリン工房責任者のもと「オレフェス・ガラス工場」と名を変え、翌年からはクリスタルガラスの生産に着手、また優秀な職人の招聘や労働環境の向上に取り組むなど、芸術と産業の両立を目指した展開期に入る。
そしてこの時期、オレフェス社の命運を担う二つの才能が招かれることになる。一人は 1916年に入社したサイモン.ガーテ、もう一人は翌年からデザイナーとなったエドワルド.ハルドである。両者共に大学では絵画、建築を専攻しておりガラス工芸とは無縁で、当時としては異例の抜擢であった。だが彼らの手により「グラール技法」「エアリエル技法」というオレフェス社独自の新技法が考案され、カッティングした有色ガラスの製作が本格的に始められる。
オレフェスはアールデコ期にコスタ社と共に北欧のガラス産業を率引、アール .ヌーヴォーとアール.デコを折衷した手法の作品や、アール.デコ調の照明器具の製作を活発に行う。この時期の作品は、従来のアール.デコ様式より穏やかな色彩や曲線を持ち、優雅な情緒性を醸し出すものが多い。透明素地に人物画などをデザインし、繊細なグラヴィールを施す作品も特徴的である。スカンディナヴィア.ファンクショナリズム(感覚的機能主義)とも呼ばれる彼らの様式は、1917年のノルウェーでの展示会で各国の注目を浴び、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会ではグランプリを受賞するまでに至る。

こうして北欧の一地方ガラス工場から世界的な知名度を得たオレフェスだが、その革新性は留まるところを知らない。第二次大戦を挟んで、ヴィッケ .リンドストランド、エドウィン.エールストレム、ウルリーカ.ヒュードマン=ヴァリエンといった現代ガラス作家の旗手とデザイナー契約を結び、次々に優れた工芸ガラス作品を生産していく。専任の芸術家によるデザインと、熟練した職人の完全な分業システムは、オランダのレールダム、フィンランドのイッタラと並び時代の先取りをし、現在も約10人の精鋭専属デザイナーを擁している。
また企業としても、 1946年にスウェーデンのもうひとつの雄、コスダ.ボダを傘下に加え(その後可度か離散集合を繰り返す)、更には1997年秋にはデンマークのロイヤル.コペンハーゲンら5社で合併、ロイヤルスカンジナビアグループを設立する。

北欧独特の機能性と合理性を共存させた、シンプルでモダンなデザインは近年ガラス産業の新勢力として世界中で人気を博している。その中でもオレフェスはスカンジナヴィアを代表するガラス工場で、常にリ一ダー的な存在である。またデザインだけでなく優れた品質も、グナ . シレーンのテーブルウェア「ノーベル」が実際にノーベル賞の受賞晩餐会で使用されていることからも折り紙つきである。

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◆ガラス工房解説 8 【Warterford】

Warterford

1783年、アイルランド南部の港町ウォーターフォードにて創立。地元の有力者、ジョージとウィリアムのペンローズ兄弟が、イングランドのガラス職人ジョン・ヒルを迎えて鉛クリスタルガラス工房を造ったのが始まりだった。イングランドでは1671年に発明された鉛クリスタルガラスにより、1720年頃からカットガラスが生産されはじめた。18世紀半ばにはカットガラスを中心にイングランドのガラス産業は進展をみせる。しかし、1777年に政府がガラスの重量加算税を制定した為、多くのガラス職人が国外へ流出した。ウォーターフォードはそれら職人の受け入れ先の一つであり、アイリッシュ.ガラスの歴史もこの時代から本格的に始まった。

当初は職人 70人程度の創業だったウォーターフォードは、テーブルウェアやシャンデリア中心に生産する。特徴である鋭角に磨がれたカッティングなどの装飾技術は高品質を誇り、19世紀前半にはイングランド王ジョージ三世からの別注を賜るなど名声を博す。また、スペインやアメリカなどへの輸出も活発に行われた。
ところが1825年に宗主国イングランドの圧力により、アイルランドの優遇税制が撤廃され、物品税の導入もなされる。これにはアイルランド産業自体が大打撃を受け、19世紀半ばには僅かを残して壊滅してしまう。ウォーターフォードも例外ではなく、無類の評判を得たにも関わらず僅か百年足らずで休業状態に追い込まれ、復活するまでにもう百年を待たなくてはならなかった。
第二次大戦後、アイルランドの独立と共にウォーターフォードも復活を果たす。以前の工場の僅か 800m隣の場所に新工場を設立しガラス製造を再開。以後テーブルウェア、シャンデリア、コンポートを中心に製作する。また近年においては、1986年にウェッジウッド社と合併、ウォーターフォード・ウェッジウッド社を設立しダブリンに本部をおく。その後ローゼンタールなども吸収、伝統と歴史の結合した高級ライフスタイル・グループ形成する。

ウォーターフォードのガラスは現在でもクラフトマンシップに溢れており、製作の工程は 200年前とあまり変わっていないとも形容される。特にカッティング技法は同杜の伝統ともいえ、鉛クリスタルの特性を良く生かしたものである。その中でも「アラーナ」に代表されるストロベリーダイヤモンドカット文様は、深い角度で繊細に掘り込まれており、高度にグラインダーを使いこなす技術が要求される。これら重厚繊細なカットに加え、クリスタル素地も鉛の含有量が30%を超える「レッド.クリスタル」を使用、透明度、輝度、重量感共に優れ、世界最高級クリスタルの源となっている。

今日においてウォーターフォードは、欧米での認知度が非常に高く、テニスやゴルフなどの世界的な大会のトロフィーに同社のグラスが使用されている。特にアメリカで圧倒的な人気を誇っており、 2004 年で販売 50 周年となった銘品「リズモア」を筆頭としたテーブルウェアは毎年のように人気リストで首位を占める。その他にもシャンデリア、オブジェ、コンポートなども高い支持を得ており、同社のコンポートが、アメリカ大統領の就任祝いにアイルランド政府から送られるのは事に有名である。
現在アイルランドのウォーターフォード郡では三つの工場が稼動、またグループ内の協力や共同開発により、中国磁器、銀製品、リネンなども新機軸として展開している。

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2007年3月 7日 (水)

◆ガラス工房解説 9 【Rene Lalique】

Rene Lalique

言う迄も無く、アールデコのみならず近代を代表するガラス工芸界の巨匠。ラリックについては研究書としても幾百の出版物が出され、簡単に解説を加えることは難しい。従って彼の極々簡単な履歴と、ガラス作家としての功績を辿ってみる事にする。

1860年 4月6日、パリの東に約120km、シャンパーニュ地方のマルヌ県アイにて生誕。
1876年 父親死去。16歳で宝飾技師ルイ.オーコックの元で働く。
1878年 ロンドンに渡り、2年間美術学校でデザインを学ぶ。
1880年 パリに帰国。二年間、宝飾デザイナーとして働く。
1882年 宝飾デザイナーとして独立、各杜にデザインを提供し活躍。
1886年 宝飾工房を買い取り、自ら実作を始める。
1889年 パリ万国博覧会に出展。(29歳)
1890年 宝飾部品として、鋳造ガラスを手掛けはじめる。
1898年 パリ郊外にガラス工房を設ける。
1900年 パリ万国博覧会に出展。その後も数々の博覧会出展や製作依頼が続く。(40歳)

ラリックはアールヌーヴォー期には宝飾デザイナーとして活躍した。1889年のパリ万国博覧会に出展し注目を浴び、その後数々の展覧会やサロンで名声を高める。1900年のパリ万国博覧会では100点以上の作品を出展し、賞賛の中で宝飾作家としての地位を不動のものとする。この頃の作品はやはりアールヌーヴォーらしく、今までの既成概念を打ち破った材質や細工を用いていた。また、彼がこの時期までに培ったデザインの技法、ガラスの製法技術は、後のガラス作家への転身の際に大きく役立つ事になる。

1908年 香水商フランソワ.コティとの共同関係が始まる。
1909年 パリ南東コーム.ド.ウィルにてガラス工場を構え、ガラス製品の生産に入る。
1911年 ガラス作品への比重が増えていく。
1912年 ガラス作品のみの展覧会を自営店で開催、この後宝飾作品の製作を放棄する。
1914年 第一次対戦勃発。同年から1918年までガラス製作を休止。


1907年、ラリックの後半生の運命を決定づける、香水商フランソワ.コティとの出会いがあった。コティはラリックに香水瓶のパッケージデザインを依頼、これを期に本格的にガラス製作に入り込む事になる。今までの一点ものの宝飾品とは違い、量産品の香水瓶という商品自体が、あたかもその後のラリックの方向性を暗示している。そして1907年を最後に、彼は宝飾作品から離れ、ガラス作家一筋に取り組むようになる。

1918年 第一次大戦終了。
1921年 アルザスロレーヌ地方に第二工場を設立。ガラス製作再開。
1925年 現在装飾美術産業美術国際博覧会出展、ガラス工芸.工業部門代表を務める。
1926年 「ルネラリック杜」設立


第一次大戦により操業休止を止むなくされたラリックだが、戦後翌年には近代設備を整えた大規模な第二工場を設立、生産を再開させる。それまでの宝飾作家としての知識と技術に加え、新たに開発した技法など全てをガラス製作に注ぎ込み、以後次々と作品を発表していく。そして 1925年のアールデコ博では工芸作品の出展以外に、自身のパビリオンの他、各パビリオンの内装、ガラス製の大噴水など室内外を問わず大規模な作品を発表、大成功を収めた。こうしてアール.デコ期を通じ、ラリックがガラス工芸界に与えた影響は限りなく大きいが、大別すると以下の通りであろう。

ラリックの革新性は、当初から品質の高い量産品を造ることを念頭においていたことに挙げられる。アールヌーヴォー期の殆どの作家達が、作品の近代化に相反して、手作り志向による一点製作主義から脱却出来ずにいたのに対し、ラリックはガラス工芸を同時に産業として捉え、自らはデザインを担当、生産は機械化された工場で、と工程を明確に分離した。ガラスの手工業的生産を近代的生産システムヘと脱却させたのである。
そして作品を大量生産とすると同時に、エミール .ガレらが築き上げた「美術工芸品」としてのガラスの価値も継承していく。デザイナーとしてラリックは、ガラスの特性を最大限に引き出し、なおかつ独創的で時代の最先端の造形を生み出していった。同時に、素地にはセミ.クリスタルガラス、成型にはプレスや型吹き、という風に、量産に適した素材や技法の開発を続け、高品質な工芸作品を生産していく。また博覧会用などに、自ら手掛ける一品製作も並行していくが、生産品とは一線を画した形で行われた。
こうした生産システムの確立により、ガラスの用途が新しい分野にも拡がっていく。異なるガラス素地や装飾のものを様々なバリエーションで大量生産出来ることで、今までには無い、未領域へのガラスエ芸の進出が可能となった。テーブルウェア、シャンデリア、花瓶といった既存の分野に加え、コンポート、モニュメント、船舶や列車、教会など室内外を問わない大規模な装飾、更にはカーマスコットに至るまで様々な領域に可能性を拡げていった。しかもそこには量産品としての品質劣化は見受けられず、優れた美術作品としての価値も並存していた。

ラリックの技法的特徴については諸誌を参考にしていただきたいが、作品の大きな特徴は素材、装飾共にガラスの透明性を最大限に活用したことであろう。素地には透明クリスタルと、半透明ないしは乳白色のオパルセント .ガラスの組み合わせを好んで多用する。色ガラスを用いる際にも色彩をぼかし、極力透明感を表現する。装飾にもサチネ、パチネといった色、光沢表現を主とした技法でガラスに更なる奥行き、立体感を与えた。こうしたラリックの作品は、光の調度で色彩、透明感、輝度が微妙に変化し、独創的な質感を持つ。そこには優れたデザインからくる造形美に加え、ガラスのみが持ちうる、重厚さ、はかなさ、神秘性などといった、素材からくる美しさも秘められていた。

1939年 第二次大戦勃発。ガラスエ場停止。
1945年 5月5日、85歳にて永眠。息子マルク.ラリックが後継となる。


アールデコ博後も精力的な制作活動を行っていたラリックだが、1939年の大戦勃発により二つの工場はドイツ軍に接収され止むなく休止、その後本格的な活動に入ることなく1945年にこの世を去ってしまう。
ラリックの築き上げた業績は、1950年代を代表する工芸作家として活躍した息子マルク、さらにその娘マリークロード・ラリックによって継続されていた。が、経営とアートディレクションを担っていたマリーは1994年に自社株を売却、1996年には完全に事業から撤退し血縁者による経営は終わりを告げた。ラリック社は現在ポシェ社の傘下に入っている。
しかしラリック社の芸術性と実用性に富んだ作品は今尚高い人気を誇っており、植物、動物、女性像などのモチーフを、クリアとフロステッドによる対比で柔らかく表現する手法は同社独特のものである。

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