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2007年2月16日 (金)

■五山派及び臨済七派① 南禅寺

南禅寺(瑞竜山太平興国南禅々寺)  http://www.nanzen.com/
臨済宗南禅寺派大本山  末寺数 426
・山内塔頭 13 南禅院 天授庵 帰雲院 金地院 聴松院 南陽院 真乗院
         高徳庵 正因庵 牧護庵慈氏院 正的院
・山外塔頭 1 光雲寺


歴史沿革
南禅寺の発祥は、亀山天皇が実母大宮院の為に造営した離宮に由る。現在の別院南禅院辺りがその創建地で、禅林寺(永観堂)が近くにあった事から禅林寺殿の名がつけられた。
後に退位落飾した亀山法皇が1291年(正応4)、東福寺三世であった無関普門(大明国師)を開山に迎え離宮を「禅林禅寺」と改める。次いで実質的な開山とされる規庵祖円(南院国師)が二世住持となり、堂宇の無い寺院を整備し十五年をかけて七堂伽藍が建立された。その間に寺名も、禅林寺の南に位置することにより南禅寺と改められる。
大覚寺統天皇や足利将軍家の庇護を受け、寺格も後醍醐天皇により五山之一、次いで足利義満の時には「五山之上」とされ、京都鎌倉の禅宗寺院最高位を誇る。比叡山僧兵との兵乱なども勃発するが、夢窓疎石ら高僧が住持し寺勢は繁栄、約十万坪の境内を有する大禅刹となった。しかし二度の大火により一山焼亡、その都度再建するも再度応仁の兵乱により七堂伽藍尽く焼失、廃絶に近い打撃を受ける。

その後桃山期以降、豊臣.徳川の庇護を受け漸く再興に向かい境内を整えるに至る。現存する堂宇も殆んど同時期の移築、再建によるものである。この際の各建築物の寄進取り付け、財政面などは二百七十世住持、以心崇伝の政治的な力によるところが大きい。「黒衣の宰相」と呼ばれ、家康の腹心であった崇伝が住持となることにより幕府との関係が強まり、南禅寺は京都公家、寺社勢力の監視拠点とされた。


本坊庭園 (江戸.国名勝)
小堀遠州の作とされ、作庭時期は大方丈(清涼殿)移築後の慶長~寛永初期と考えられる。遠州は近世作庭の名手で、同時期に同別院金地院( 1629年頃)をはじめ二条城二の丸、孤篷庵(大徳寺塔頭)など多くの作庭を手掛けており、また建築家、茶人としても優れた人物であった。

南禅寺南庭は禅院式後期枯山水の典型的作風をもつ平庭で、奥行きやや深めの長方形、左手奥に遠景、右手前に近景をおき、遠景の築地塀添いを中心に石組、樹木が据えられている。これらは敷地のバランスを考え、右方に向かって組み流され、その対比として、手前の大部分が大川を意とした白砂で敷き詰めている。石組の意匠は「虎の子渡し」として有名であり南禅寺南庭はその代表とされている。
これら庭園の構成は作庭当初の意図を踏まえ、殆んど変わりなく現在に伝えているが、築地塀越しに窺えた東山の借景は、昭和期に新築された庫裏によって遮られてしまっている。


主要建築物
三門(江戸.重文) 
1628年(寛永5)、藤堂高虎の寄進。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。東福、大徳、妙心寺と同形式を持つが、特に木太く重厚な典型的禅宗式三門。江戸期にありながら中世古式を伝える。
方丈(桃山.国宝) 
大方丈は1611年(慶長16)に内裏清涼殿を下賜。豊臣秀吉が天正期頃に造営したものと思われ、単層入母屋、寝殿造。近世寝殿建築を伝える貴重な遺構である。小方丈はその背面北側にあり、伏見城の遺構とされるが確証は無い。北面は切妻、大方丈に比べ豪快な造り。大方丈の付属的性格で、内方丈的性格も持たない特殊な存在である。
勅使門(桃山.重文) 
1641年(寛永18)御所内裏の日御門を拝領、移築。檜皮葺、四脚門。造営自体は慶長期と思われ、桃山建築の特徴をよく表している。
法堂(明治) 明治42年の再建。
僧堂(大正) 大正7年の再建。
庫裏(大正) 大正8年の再建。

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