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2007年2月15日 (木)

■桂離宮.再訪

何だか難しいことはよく解らないが、心惹かれまた桂の地へ赴きたくなった貴方や、もう少し桂を詳しく知りたくなった貴方へ。

類型.相反.関連庭園の事前処理
八条宮各親王後水尾上皇.小堀遠州等々、桂と所縁のある人物の史跡を観ることにより、桂への理解度を深めてみましょう。これらを巡られた後に再度桂を訪れられると、また新しい魅力が見つかるかもしれません…

-修学院離宮-
後水尾院作の日本最大にて最高の自然風景式庭園、桂と並び寛永宮廷文化一方の雄。造営時と比べ各茶屋の消失や畦道の植松等、多少の変遷はあるも修学院を修学院たらしめる上茶屋からの景観は不変。正しく雄大、圧巻、絶句。
院は修学院造営中に桂へ三度御幸されており、その創意から大いなる影響を受けられました。特に上茶屋の池泉構成からはそれが顕著に窺えます。舟遊式を機軸として池泉に点在している(た)茶屋や船着場、土橋の配し方等々、桂との通有性が発見されます。また、苑路の要所に備えられた石灯篭や中茶屋客殿の装飾、といった意匠面からも同様の発見がされるでしょう。
そして最大の共通点は現存する庭園.建築群において、致命的な被災.改悪を免れて制作者の意匠が色濃く余しており、尚且つ美しさと並立している点ではないでしょうか。 

但し山麓の傾斜地と川畔の平坦地という立地条件もありますが、両別業の持つ「奔放豪快」さと「繊細緻密」な性質の違いは、そのまま後水尾院と八条宮様の気質の差異かもしれません。延いては両離宮の差異ともとれ、修学院が「精神を悠揚にさせる」ものなの対し、桂は「神経を鋭敏にさせる」もの、と云えるでしょう。(因みに桂との苑地面積比8:1に対し、建物延べ面積比は1:2)

-曼殊院-
寛永文化の中心を司るサルーンとして文化人交流の場となった曼殊院。書院と庭園の完成は明暦年間初期頃で、造営者は八条宮の系譜を汲む良尚法親王。時期的に智忠親王による桂増改修とも前後し、恐らく桂造営に関わった宮家所縁の工匠も参画したと思われます。
故に同書院は「小さな桂離宮」とも称され、製作者の創意(欄間、違い棚、釘隠しや引き手など)が細部にまで行き届いている点では桂に最も類似していると云えるでしょう。特に趣向的に新御殿、笑意軒に類似する点が多く見受けられます。庭園についても宮家門跡らしい公雅さを醸し出しており、枯山水でありながら禅刹のそれとは全く違った高尚な趣があります。

但し寛永文化様式後期の造営ということもあり、表面的な意匠がやや先走りしている点は否めません。古今東西問わず文化様式の末期になると、意匠の内的精神性(創意)よりも外的装飾性(技巧)が強調されてしまうのはよくある傾向です。
それでも装飾が煩瑣になり過ぎず、水準以上の気品と美しさ保っていられるのは宮家直系の才と見識の為せる業でしょう。

-仙洞御所-
桂に多大な影響を与えた小堀遠州の作庭、寛永期の造営でその時期は桂や修学院と重なります。しかし度々改造が加えられ、現存する庭園に遠州の作意は殆んど痕跡を残していません。また御所建築物は幾度も焼亡、嘉永期の火災以後は再営されず現在は跡地を残すのみとなっています
と云う風に造営初期と現在では景趣にかなり隔たりがありますが、寛永宮廷文化の資質は充分に承継されています。寝殿造を基幹とした舟遊式庭園と池泉に点在している(た)茶屋。緩やかで上品な汀線、一升石を用いた護岸など雅やかな意匠、東山山麓を借に取り込んだ眺望…。御所様式の一典型として桂との類似点も色々と発見されます。

しかし桂との決定的な相違項として、創意の「無味無臭」性があります。前述したように幾度と無く繰り返された改造により、造営者の趣向は希薄化し、庭園の持つ内的生命力は失われてしまっています。従って桂と仙洞御所の一番の共通項は、具体的な意匠よりも苑内を支配する公雅な空気なのかもしれません。 

※因みに造営初期の地割りは、切石を要した護岸を直線に組み合せた矩形状の池泉を有し、当時としてはかなり斬新な設計でした。その後、後水尾院により徹底的に改良が加えられ、現存する曲線的な地割りは後水尾色が強いと思われます。西欧流の直線的な設計は修学院の意匠からも汲み取れますが、遠州のデザインが余りに奇抜すぎた為に院の趣向にそぐわなかったのかは定かではありません。江戸中期と明治期にも遂次改造が行われ、現在に至ります。


-二条城-
唯一書院の雁行形式のみが類似点、但し美しさは比べようもありませんが…。規模.装飾の点で宮廷文化と武家文化の相違が如実に現れているので、桂との比較対照の題材として観ておくのも宜しいでしょう。智忠親王は中書院.新御殿増築前に二条城に行啓されており、書院の雁行形式はここでヒントを得られたのかもしれません。
因みに本丸には明治期に京都御苑から移築した旧八条宮(桂宮)邸があります。最早「ぬけがら」状態にて何の生命力も感じ取れませんが参考までに記述しておきます。


-西芳寺-
夢窓疎石中興以降、日本庭園全ての範。しかし応仁の乱にて壊滅的な打撃を受け、慶長年間に漸く再興着手されるも旧観に復することは叶いませんでした。桂造営時には昔日の堂宇は全て焼亡、池泉は恐らく今日に近い惨況になっていたと思われます(尤もこの頃はまだ「苔」寺ではありませんでしたが)。
親交関係や立地条件から考えて、智仁.智忠親王も度々行啓されていたのは間違いなく、池泉地割りや松庵(現湘南亭)、それに「西芳寺池庭縁起」から色々参考にされる事もあったように思えます。文献から推察できる往時の西芳寺からは現在の桂に相通ずるものが見出せるのですが…。
しかし今となっては、現在の桂から曾ての西芳寺を推し測れる事の方が多いのかもしれません。(西芳寺についての詳細は「西芳寺叢書」参照)

※「もっと桂離宮」に続く

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