1.歴史沿革 (西芳寺池庭縁起」より)
今回の主題は「西芳寺復元」なので、寺史詳細についてはなるべく端折りますが、西芳寺世界観の根幹に関わる部分については省略できないので簡単に記述しておきます。
聖徳太子の別荘地以来の由来を持つ同地は、聖武天皇の詔にて行基が寺院を建立したことに始まり、平安初期には皇太后高野新笠、真如親王が草庵を結ばれたとされています。その後寺領は荒廃しますが、建久年間(12世紀末)には檀那中原(大江)師員により堂舎建立、法然を住持に迎え念仏宗に帰依します。
これら事蹟は誇張も多く真偽は定かではありませんが、建久の再建時に寺領が整備され、穢土寺《境内上部》と西方寺《境内下部》の二寺に分けられたことが、後に西芳寺の成り立ちに大きく影響を与えます。
建武の兵乱によって再度寺領疲弊も、暦応2年(1339)には中原師員の子孫である藤原親秀が夢窓疎石を勧請、臨済禅刹に改め中興に努めます。同時に西方寺を「西芳寺」と改め、並立する穢土寺を併合、管理する形となります。しかし両寺の持つ宗教的世界観(西方境、穢土境)は引き継がれていきました。
西方寺を踏襲する西芳寺は欣行浄土を意図したものでした。浄土式庭園を基幹に舟遊.回遊両形式を有する庭園は、池泉を中心に荘厳絢爛な堂舎が並び立ち、正しく極楽浄土を具現化したものだったと思われます。
それに対して穢土寺は丘陵地の古墳群跡に建てられたもので、厭離穢土を意図し、娑婆穢国に於ける修練場としての厳格な役割を担っていました。故に禅刹としての聖域でもあり、外部からの入山者は厳しく制限されていました。
しかし応仁の乱によって一山尽く類焼、その後も洪水や山崩れによって栄華を誇った往時の姿からはかけ離れた状態になっていきます。美しく剪定された植樹は荒れるに任せ自然林と化し、白砂敷きの苑路は埋没、池泉や中島も度重なる土砂堆積により原型を失っていきました。こうした負の蓄積の結果が、現状の苔生した境地を作り出していったのです。
(以下私見にて余談)
尤も他の史蹟がそうであるように、創建時の姿をそのまま留めている歴史的建造物や景勝などは殆ど皆無です。そういう意味では西芳寺が「苔寺」へと変貌していったのも当然の成り行きなのかも知れません。従って現在の苔寺の在り様について、これはこれで良いような気がします。(この点に関しては久恒秀治氏がかなり辛辣な論評を述べられています。
ただ、近現代に於ける再建造物への無秩序な名称使用には、どうしても疑問符をつけざるを得ません。現在の西来堂.潭北亭.邀月橋なるもの…。これらはかつての堂宇と何の共通項も持たない名ばかりのもので、悪戯に混乱を招くだけです。出来れば古の西芳寺を継承する意向が感じ取れる再興を望みたいものです。
2.北山殿.東山殿と西芳寺
北山殿と東山殿、それぞれの足利将軍山荘が西芳寺の影響を色濃く受けて造営されたことは余りにも有名です。しかし両山荘共、開基将軍没後には禅刹へ改められ、堂舎の幾つかは取り壊し、または移築されてしまいます。更には数次の兵乱で寺領の大部分を焼失してしまいました。
それでも尚、創建時の容姿や地割りを部分的に留めており、今日の両寺からは往時の西芳寺を推察できる点が多々有ります。と云う訳で、現在の鹿苑寺慈照寺から「西芳寺復元」の資料を拾集してみたいと思います。
-北山殿 (鹿苑寺)-
元々同地は藤原北家分派の西園寺家の所有で、西園寺公経により山荘「北山第」が経営されたことに事由します。北山第は鎌倉初期の造営ということもあり、平安時代の王朝文化様式を色濃く継承していました。(当時の様子は「増鏡.内野の雪」に詳しく記されています)
記述によると、北山第は当時において「他に並ぶもの類を見ない」規模と豪奢を誇っていました。苑内には寝殿.対屋.釣殿等の堂舎が立ち並び、丑寅の方角から前池(鏡湖池)に遣水を配す、典型的な寝殿造様式だったことが窺えます。
また、五大堂.不動堂.無量光院などの密教寺院堂宇も確認され、浄土式庭園の要素が強かったことも間違い無いでしょう。
その後、西園寺家の没落により北山第は荒廃していきますが、南北朝末期に足利義満がこの地を譲り受けました。同地に将軍職を退隠した義満の居所として、1397年(応永4)頃から新たに造営された山荘が「北山殿」、現在の鹿苑寺になります。
北山殿は北山第の遺構をそのまま引き継いで使用し、故に寝殿造.浄土式庭園の要素も踏襲していました。特に池泉地割りや滝口、堂舎の造営位置などは、概ね改めることなく利用されています。
そこに舎利殿.会所.常御所などの堂舎を新たに配し武家様式を折衷、更には西芳寺の影響を受け初期禅宗要素を加えたものと云えるでしょう。従って現在の北山殿遺構(鹿苑寺)からも、下記のような部分から西芳寺の影響が見て取れます。
鏡湖池立石組
龍爆門立石組鏡湖池からは、北山第を踏襲した寝殿.浄土式庭園の池泉様式に、禅宗様式立石組(九山八海石など)を折衷した構成が窺えます。唐様山水画的な立石手法は夢窓疎石の得意とするところで、西芳寺黄金池や天龍寺曹源池の要素を加味したものだと思われます。
池泉周辺の建築物配置
義満造営時の北山殿堂舎は尽く移築.類焼していますが、舎利殿と鏡湖池を中心とした構図は北山殿造営時と変わりないと思われます。東山殿の西芳寺模倣ほど徹底してないにせよ、北山殿の池泉.堂舎の配置関係は西芳寺を参考にしたことが古文献から窺えます。(下図 堂舎対比表参照)。
創建時の状態へ忠実に復元された舎利殿
西芳寺瑠璃殿の形状.様式を参考にしながらも、二重閣の瑠璃殿に対して、規模を大きくした三重閣の構造を有し、更には金箔を施すなど王権の在処としての威厳を加えたものが舎利殿(金閣)だと思われます。また、舎利殿の造営は西芳寺の約六十年後であることから、建築様式は類似していると見てよいでしょう。
銀河泉跡
鏡湖池立石組同様、石組み手法からは夢窓疎石の得手とする唐様山水画の趣向が見て取れ、北山殿造営時のものと推察されます。また滝口位置からも、竜淵水を本歌としたことは間違いなく西芳寺からの影響が示唆されます。
義満はこの上なく夢窓疎石に傾倒しており、度々西芳寺を訪れては指東庵で座禅を組んでいました。更には自ら建立した相国寺開山に追請するなど、疎石に対する崇敬の程が窺えます。
これらの事柄から、西芳寺を北山殿造営の参考にしたことは想像に難しくありません。
-東山殿 (慈照寺)-
元々東山周辺は平安期以来の葬送地で、故に多くの寺院が建立されていました。その一つとして平安中期頃に創建された延暦寺門跡「浄土寺」がありました。しかし応仁の乱にて浄土寺は荒廃、その跡地を足利義政が召し上げて山荘を経営したものが「東山殿」です。
義政が西芳寺庭園に傾倒し、東山殿にその多くを模倣したことは余りにも有名です。義政の西芳寺参籠は計十八度を数え、且つ兵乱によって被災した東求堂修復を自ら手掛けるなど、その愛好の程が窺えます。
また、義政は東山殿に先がけること約二十年前、実母の居所として「高倉殿」を造営しています。高倉殿は「一木一草木立ニ至ル迄」西芳寺を模して造られたことが古文献からも確認出来、後の東山殿造営の下拵となったことでしょう。尚この際造営された建造物の幾つかは東山殿に移築され、そのまま使用された物もあるようです。
将軍職を辞去した義政は自らの居所として、文明14年(1482)から東山殿造営に着手します。義政は都のあらゆる景勝地を物色し、山荘経営の構想を温めていました。東山殿の地形は約九十度反転させると山畔の傾斜や池泉位置など西芳寺地形と酷似しており、この場所を選んだこと自体、西芳寺模倣を確信的に行ったといえます。
従って東山殿の境地は西芳寺同様、上段(山畔部)下段(平坦部)の二段構成から成り立っています。そして義政の西芳寺模倣は境地構成のみならず、堂舎の相対的な位置関係や役割.呼称にまで及びました。その再現意図は下の対比図からも一目瞭然です。
現存する東山殿遺構(慈照寺)は観音殿.東求堂と池泉地割りのみですが、近年において各堂舎跡の発掘が進み、全容が明らかになりつつあります。前述したように東山殿堂舎の相対的位置関係は西芳寺を徹底的に模倣しています。つまり西芳寺の堂舎配置を考察する際に、東山殿遺構は大いに参考となるのです。
但し義政は東山殿造営において、北山殿改め鹿苑寺の要素も参考としていますので、この点も念頭に入れておかなくてはいけません。
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《西芳寺と北山殿.東山殿の堂舎対比表》 |
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西芳寺 |
東山殿 |
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北山殿 |
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造営時期 |
1339年頃 |
1482~90年 |
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1397~8年頃 |
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山頂亭 |
縮遠亭 |
超然亭 |
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看雪亭 |
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上 |
山中亭 |
売風店 |
漱蘚亭 |
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‐ |
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段 |
禅堂 |
指東庵 |
西指庵 |
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‐ |
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部 |
滝口 |
竜淵水 |
洗月泉 |
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銀河泉 |
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山頂入口 |
向上関 |
太玄関 |
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‐ |
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本堂 |
西来堂 |
東求堂 |
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天鏡閣 |
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仏殿 |
瑠璃殿 |
観音殿 |
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舎利殿 |
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下 |
(階上名称) |
無縫閣 |
心空殿 |
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究竟頂 |
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段 |
池泉亭 |
潭北亭 |
弄清亭 |
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(泉殿) |
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部 |
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湘南亭 |
釣秋亭 |
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(釣殿) |
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池泉廊橋 |
邀月橋 |
龍背橋 |
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拱北楼 |
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舟舎 |
合同船 |
夜泊舟 |
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漱清 |
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池泉 |
黄金池 |
錦鏡池 |
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鏡湖池 |
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居所 |
釣寂庵 |
常御殿 |
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常御殿 |
3.西芳寺創建時の建築.庭園様式
これも語り始めるとキリがないので要点だけを簡潔に。
禅宗寺院の本格的な建立が始まったのは鎌倉期からですが、当時の建築様式は和様.大仏様. 折衷様(大仏様を取り込んだ和様)が主流でした。建長寺.円覚寺.建仁寺.東福寺などの初期禅宗寺院も、七堂伽藍の配置こそ禅刹独特のものでしたが、その建築様式は主に和様.大仏様と禅宗様を折衷したものでした。
特に京においては旧仏教側の圧力が強く、禅寺も当初は三宗兼学寺院として創建された為にこの傾向は強かったと思われます。(本格的な純禅宗様式の開花は、室町後期まで待たなくてはなりません)
庭園様式についても同時代では、平安中期以来の寝殿造系庭園.浄土式庭園が主流でした。当時は貴族の浄土信仰により浄土寺院的要素を持った邸宅や、貴族別荘を浄土寺院に改めたものが多く造営され、それらからは両庭園様式を混載した手法が多く発見されます。
また庭園使途についても、詩歌.管弦.曲水といった遊興の用途が中心で、今日よく見られるような鑑賞本位の庭園はまだ現れていませんでした。
これらの傾向は室町初期に至るまで大きな変化はなく、西芳寺造営期における建築.庭園様式は、様々な様式の折衷によって形成されていました。そんな過渡期の状態に新風を吹き込んだのが夢窓疎石といえます。
疎石の西芳寺造営は暦応2年(1339)、それまでに疎石は全国各地を行脚し、様々な庭園を手掛けていました。当時は秀逸な寝殿造系庭園.浄土式庭園も数多く存在していたでしょうから、それらの影響も受けていたと思われます。事実、疎石作とされる南禅院.永保寺遺構の一部からは浄土式色彩が色濃く窺え、天龍寺庭園からは旧亀山殿由来の寝殿造系の庭園構成を感じ取ることが出来ます。
これらの時代様式的背景に加え、西芳寺の前身である西方寺の宗教的性格から考えて、禅刹とはいえ西芳寺も浄土式庭園.寝殿造様式の堂舎配置構成を機軸にしていたと考えてよいでしょう。そこに唐様山水的な石組みや、鑑賞要素を主体とした庭園構成など、新しい試み(初期禅宗様式)を加味していったと思われます。
4.参考文献
「京都名園記」 誠文堂新光社(1969) 久恒秀治著
「京都名庭百選」 (株)淡交社(1999) 中根金作著
「庭園」 (株)東京堂出版(1988) 森蘊著
「日本庭園辞典」 (株)岩波書店(2004) 小野健吉著
「築山庭造伝」 加島書店(1989) 上原敬二編
「作庭記」 (株)岩波書店(2001) 林家辰三郎校注
「図絵京都名所100選」 (株)淡交社(1991) 竹村俊則著
「都名所図会」 筑摩書房(1999) 市古夏生.鈴木健一校訂
「カラー京都の庭」 (株)淡交社(1968) 竹山道雄著
「原色日本の美術10巻 禅刹と石庭」 (株)小学館(1967) 複数著者
「名宝日本の美術13巻 五山と禅院」 (株)小学館(1983) 関口欣也著
「古寺巡礼京都20 金閣寺銀閣寺」 (株)淡交社(1977) 複数著者
「天龍寺」 (株)東洋文化社(1978) 奈良本辰也監修
「京都大事典」 (株)淡交社(1984) 複数者編
「寺社建築の鑑賞基礎知識」 至文堂(1999) 濱島正士著
「日本の美術34 庭園とその建物」 至文堂(1969) 森蘊編
「日本の美術75 書院造」 至文堂(1972) 橋本文雄編
「日本の美術126 禅宗建築」 至文堂(1976) 伊藤延男編
「日本の美術153 金閣と銀閣」 至文堂(1979) 関野克編
「日本の美術197 平安建築」 至文堂(1982) 工藤圭章編
「日本の美術198 鎌倉建築」 至文堂(1982) 伊藤延男編
「日本の美術199 室町建築」 至文堂(1982) 川上貢
「西芳寺池庭縁起」1400(応永7)年 中韋急渓
「栖芳寺遇眞記」 1443(嘉吉3)年頃 申叔舟
「老松堂日本行録」 1420(応永27)年頃 宋希景
「蔭涼軒日録」 15世紀中~後期頃 亀泉集証
(「京都名園記」下巻「西芳寺巻」より参照)
西芳寺叢書(中)に続く