2007年2月13日 (火)

■裏ブログ(B面)設立の旨意

えー、いつも御世話になっています、赤坂バンブー【酒司】です。

先日、営業インフォメーション等中心のウェブログを立ち上げましたが、余り色々なものを詰め込むと雑駁になるので、コラム専用サイトとしてこちら(B面)を活用することにしました。ホームページのコラムサイトと連動して運用していく予定です。
当座はホームページコラムからの引越しが主体になりますが、序々に新規モノも加筆していきますので宜しくです。

と云う訳にてサイトの性格上、書き込みは古いものより表示されていますので最新記事は表示の一番最後尾になります。あしからず。 店主敬白。

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2007年2月14日 (水)

■西芳寺叢書 (序)

序  ~前書きに代えて~


西芳寺。庫裏横の小門を潜り庭園内に足を踏み入れると、眼前に広がる苔一面の光景は深山幽谷にて幻想的、確かに類を見ない美しさです。

しかし夢窓疎石中興により「結構の極」とまで謳われ、以降全ての庭園の範とされた「西芳寺」は、現在見受けられる林泉と全く様相を異にしていました。壮麗吟詠を誇った堂舎は応仁の乱にて壊滅的な打撃を受け灰燼と化し、一宇すら残っていません。今日に至っては黄金池の地割りと石組の幾つかが僅かに往時を偲ばせるだけです。
従って現在の遺構は西芳寺「跡」なのであり、もっと正確には「近現代建造寺院.苔寺」といった方が良いのかもしれません。
こうした史実を踏まえた上で何度か洛西の地を訪れ、自分なりに考察を加えていくうちに、盛観な伽藍を誇った往時の西芳寺を知りたくなってきました。
と云う訳で「西芳寺修復」を机上で試みようと至った次第です。

ただ、西芳寺復元を試みるといっても、どこから手掛けようものやら…。
根幹となる黄金池の形状からして、昔日の西芳寺とどれ程近似しているのか疑問です。「築山庭造伝」では、黄金池は猫の額程度の矮小な小池として記されており、現在の池泉地割りは江戸中期以降に修復されたことが確認できます。また池泉北側の丘陵地は幾度となく山崩れをおこしており、現在の山野地形も鵜呑みには出来ません。
そこで方法論として

  1.寺史から酌み取れる西芳寺の精神的世界観を前提に
  2.西芳寺に色濃く影響を受けた庭園及び
  3.西芳寺建立頃の建築.庭園様式を踏まえた上で
  4.現存するソース(古文書資料.研究書等文献)を参考にして

疎石作西芳寺を想定出来る限り復元してみようと思います。
尚、復元絵図及びその考察については「西芳寺叢書 上.中.下」編、にて詳細記述していきます。


西芳寺叢書(上)に続く

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■西芳寺叢書(上)

1.歴史沿革 (西芳寺池庭縁起」より)
今回の主題は「西芳寺復元」なので、寺史詳細についてはなるべく端折りますが、西芳寺世界観の根幹に関わる部分については省略できないので簡単に記述しておきます。

聖徳太子の別荘地以来の由来を持つ同地は、聖武天皇の詔にて行基が寺院を建立したことに始まり、平安初期には皇太后高野新笠、真如親王が草庵を結ばれたとされています。その後寺領は荒廃しますが、建久年間(12世紀末)には檀那中原(大江)師員により堂舎建立、法然を住持に迎え念仏宗に帰依します。
これら事蹟は誇張も多く真偽は定かではありませんが、建久の再建時に寺領が整備され、穢土寺《境内上部》と西方寺《境内下部》の二寺に分けられたことが、後に西芳寺の成り立ちに大きく影響を与えます。

建武の兵乱によって再度寺領疲弊も、暦応2年(1339)には中原師員の子孫である藤原親秀が夢窓疎石を勧請、臨済禅刹に改め中興に努めます。同時に西方寺を「西芳寺」と改め、並立する穢土寺を併合、管理する形となります。しかし両寺の持つ宗教的世界観(西方境、穢土境)は引き継がれていきました。

西方寺を踏襲する西芳寺は欣行浄土を意図したものでした。浄土式庭園を基幹に舟遊.回遊両形式を有する庭園は、池泉を中心に荘厳絢爛な堂舎が並び立ち、正しく極楽浄土を具現化したものだったと思われます。
それに対して穢土寺は丘陵地の古墳群跡に建てられたもので、厭離穢土を意図し、娑婆穢国に於ける修練場としての厳格な役割を担っていました。故に禅刹としての聖域でもあり、外部からの入山者は厳しく制限されていました。

しかし応仁の乱によって一山尽く類焼、その後も洪水や山崩れによって栄華を誇った往時の姿からはかけ離れた状態になっていきます。美しく剪定された植樹は荒れるに任せ自然林と化し、白砂敷きの苑路は埋没、池泉や中島も度重なる土砂堆積により原型を失っていきました。こうした負の蓄積の結果が、現状の苔生した境地を作り出していったのです。

(以下私見にて余談)
尤も他の史蹟がそうであるように、創建時の姿をそのまま留めている歴史的建造物や景勝などは殆ど皆無です。そういう意味では西芳寺が「苔寺」へと変貌していったのも当然の成り行きなのかも知れません。従って現在の苔寺の在り様について、これはこれで良いような気がします。(この点に関しては久恒秀治氏がかなり辛辣な論評を述べられています。
ただ、近現代に於ける再建造物への無秩序な名称使用には、どうしても疑問符をつけざるを得ません。現在の西来堂.潭北亭.邀月橋なるもの…。これらはかつての堂宇と何の共通項も持たない名ばかりのもので、悪戯に混乱を招くだけです。出来れば古の西芳寺を継承する意向が感じ取れる再興を望みたいものです。


2.北山殿.東山殿と西芳寺
北山殿と東山殿、それぞれの足利将軍山荘が西芳寺の影響を色濃く受けて造営されたことは余りにも有名です。しかし両山荘共、開基将軍没後には禅刹へ改められ、堂舎の幾つかは取り壊し、または移築されてしまいます。更には数次の兵乱で寺領の大部分を焼失してしまいました。
それでも尚、創建時の容姿や地割りを部分的に留めており、今日の両寺からは往時の西芳寺を推察できる点が多々有ります。と云う訳で、現在の鹿苑寺慈照寺から「西芳寺復元」の資料を拾集してみたいと思います。

-北山殿 (鹿苑寺)-
元々同地は藤原北家分派の西園寺家の所有で、西園寺公経により山荘「北山第」が経営されたことに事由します。北山第は鎌倉初期の造営ということもあり、平安時代の王朝文化様式を色濃く継承していました。(当時の様子は「増鏡.内野の雪」に詳しく記されています)
記述によると、北山第は当時において「他に並ぶもの類を見ない」規模と豪奢を誇っていました。苑内には寝殿.対屋.釣殿等の堂舎が立ち並び、丑寅の方角から前池(鏡湖池)に遣水を配す、典型的な寝殿造様式だったことが窺えます。
また、五大堂.不動堂.無量光院などの密教寺院堂宇も確認され、浄土式庭園の要素が強かったことも間違い無いでしょう。

その後、西園寺家の没落により北山第は荒廃していきますが、南北朝末期に足利義満がこの地を譲り受けました。同地に将軍職を退隠した義満の居所として、1397年(応永4)頃から新たに造営された山荘が「北山殿」、現在の鹿苑寺になります。

北山殿は北山第の遺構をそのまま引き継いで使用し、故に寝殿造.浄土式庭園の要素も踏襲していました。特に池泉地割りや滝口、堂舎の造営位置などは、概ね改めることなく利用されています。
そこに舎利殿.会所.常御所などの堂舎を新たに配し武家様式を折衷、更には西芳寺の影響を受け初期禅宗要素を加えたものと云えるでしょう。従って現在の北山殿遺構(鹿苑寺)からも、下記のような部分から西芳寺の影響が見て取れます。

鏡湖池立石組 
龍爆門立石組鏡湖池からは、北山第を踏襲した寝殿.浄土式庭園の池泉様式に、禅宗様式立石組(九山八海石など)を折衷した構成が窺えます。唐様山水画的な立石手法は夢窓疎石の得意とするところで、西芳寺黄金池や天龍寺曹源池の要素を加味したものだと思われます。

池泉周辺の建築物配置
義満造営時の北山殿堂舎は尽く移築.類焼していますが、舎利殿と鏡湖池を中心とした構図は北山殿造営時と変わりないと思われます。東山殿の西芳寺模倣ほど徹底してないにせよ、北山殿の池泉.堂舎の配置関係は西芳寺を参考にしたことが古文献から窺えます。(下図 堂舎対比表参照)。

創建時の状態へ忠実に復元された舎利殿
西芳寺瑠璃殿の形状.様式を参考にしながらも、二重閣の瑠璃殿に対して、規模を大きくした三重閣の構造を有し、更には金箔を施すなど王権の在処としての威厳を加えたものが舎利殿(金閣)だと思われます。また、舎利殿の造営は西芳寺の約六十年後であることから、建築様式は類似していると見てよいでしょう。

銀河泉跡
鏡湖池立石組同様、石組み手法からは夢窓疎石の得手とする唐様山水画の趣向が見て取れ、北山殿造営時のものと推察されます。また滝口位置からも、竜淵水を本歌としたことは間違いなく西芳寺からの影響が示唆されます。

義満はこの上なく夢窓疎石に傾倒しており、度々西芳寺を訪れては指東庵で座禅を組んでいました。更には自ら建立した相国寺開山に追請するなど、疎石に対する崇敬の程が窺えます。
これらの事柄から、西芳寺を北山殿造営の参考にしたことは想像に難しくありません。

-東山殿 (慈照寺)-
元々東山周辺は平安期以来の葬送地で、故に多くの寺院が建立されていました。その一つとして平安中期頃に創建された延暦寺門跡「浄土寺」がありました。しかし応仁の乱にて浄土寺は荒廃、その跡地を足利義政が召し上げて山荘を経営したものが「東山殿」です。

義政が西芳寺庭園に傾倒し、東山殿にその多くを模倣したことは余りにも有名です。義政の西芳寺参籠は計十八度を数え、且つ兵乱によって被災した東求堂修復を自ら手掛けるなど、その愛好の程が窺えます。
また、義政は東山殿に先がけること約二十年前、実母の居所として「高倉殿」を造営しています。高倉殿は「一木一草木立ニ至ル迄」西芳寺を模して造られたことが古文献からも確認出来、後の東山殿造営の下拵となったことでしょう。尚この際造営された建造物の幾つかは東山殿に移築され、そのまま使用された物もあるようです。

将軍職を辞去した義政は自らの居所として、文明14年(1482)から東山殿造営に着手します。義政は都のあらゆる景勝地を物色し、山荘経営の構想を温めていました。東山殿の地形は約九十度反転させると山畔の傾斜や池泉位置など西芳寺地形と酷似しており、この場所を選んだこと自体、西芳寺模倣を確信的に行ったといえます。
従って東山殿の境地は西芳寺同様、上段(山畔部)下段(平坦部)の二段構成から成り立っています。そして義政の西芳寺模倣は境地構成のみならず、堂舎の相対的な位置関係や役割.呼称にまで及びました。その再現意図は下の対比図からも一目瞭然です。

現存する東山殿遺構(慈照寺)は観音殿.東求堂と池泉地割りのみですが、近年において各堂舎跡の発掘が進み、全容が明らかになりつつあります。前述したように東山殿堂舎の相対的位置関係は西芳寺を徹底的に模倣しています。つまり西芳寺の堂舎配置を考察する際に、東山殿遺構は大いに参考となるのです。
但し義政は東山殿造営において、北山殿改め鹿苑寺の要素も参考としていますので、この点も念頭に入れておかなくてはいけません。

    《西芳寺と北山殿.東山殿の堂舎対比表》
      西芳寺   東山殿   北山殿
  造営時期  1339年頃  1482~90年  1397~8年頃
   山頂亭   縮遠亭   超然亭   看雪亭
 山中亭   売風店   漱蘚亭    ‐
 禅堂   指東庵   西指庵    ‐
 滝口   竜淵水   洗月泉   銀河泉
   山頂入口   向上関   太玄関    ‐
   本堂   西来堂     東求堂   天鏡閣
   仏殿   瑠璃殿   観音殿   舎利殿
 (階上名称)   無縫閣   心空殿   究竟頂
 池泉亭   潭北亭   弄清亭   (泉殿)
    湘南亭   釣秋亭   (釣殿)
   池泉廊橋   邀月橋   龍背橋   拱北楼
   舟舎   合同船   夜泊舟   漱清
   池泉   黄金池   錦鏡池   鏡湖池
   居所   釣寂庵   常御殿   常御殿

3.西芳寺創建時の建築.庭園様式
これも語り始めるとキリがないので要点だけを簡潔に。
禅宗寺院の本格的な建立が始まったのは鎌倉期からですが、当時の建築様式は和様.大仏様. 折衷様(大仏様を取り込んだ和様)が主流でした。建長寺.円覚寺.建仁寺.東福寺などの初期禅宗寺院も、七堂伽藍の配置こそ禅刹独特のものでしたが、その建築様式は主に和様.大仏様と禅宗様を折衷したものでした。
特に京においては旧仏教側の圧力が強く、禅寺も当初は三宗兼学寺院として創建された為にこの傾向は強かったと思われます。(本格的な純禅宗様式の開花は、室町後期まで待たなくてはなりません)

庭園様式についても同時代では、平安中期以来の寝殿造系庭園.浄土式庭園が主流でした。当時は貴族の浄土信仰により浄土寺院的要素を持った邸宅や、貴族別荘を浄土寺院に改めたものが多く造営され、それらからは両庭園様式を混載した手法が多く発見されます。
また庭園使途についても、詩歌.管弦.曲水といった遊興の用途が中心で、今日よく見られるような鑑賞本位の庭園はまだ現れていませんでした。

これらの傾向は室町初期に至るまで大きな変化はなく、西芳寺造営期における建築.庭園様式は、様々な様式の折衷によって形成されていました。そんな過渡期の状態に新風を吹き込んだのが夢窓疎石といえます。

疎石の西芳寺造営は暦応2年(1339)、それまでに疎石は全国各地を行脚し、様々な庭園を手掛けていました。当時は秀逸な寝殿造系庭園.浄土式庭園も数多く存在していたでしょうから、それらの影響も受けていたと思われます。事実、疎石作とされる南禅院.永保寺遺構の一部からは浄土式色彩が色濃く窺え、天龍寺庭園からは旧亀山殿由来の寝殿造系の庭園構成を感じ取ることが出来ます。
これらの時代様式的背景に加え、西芳寺の前身である西方寺の宗教的性格から考えて、禅刹とはいえ西芳寺も浄土式庭園.寝殿造様式の堂舎配置構成を機軸にしていたと考えてよいでしょう。そこに唐様山水的な石組みや、鑑賞要素を主体とした庭園構成など、新しい試み(初期禅宗様式)を加味していったと思われます。


4.参考文献

「京都名園記」 誠文堂新光社(1969) 久恒秀治著
「京都名庭百選」 (株)淡交社(1999) 中根金作著
「庭園」 (株)東京堂出版(1988) 森蘊著
「日本庭園辞典」 (株)岩波書店(2004) 小野健吉著
「築山庭造伝」 加島書店(1989) 上原敬二編
「作庭記」 (株)岩波書店(2001) 林家辰三郎校注
「図絵京都名所100選」 (株)淡交社(1991) 竹村俊則著
「都名所図会」 筑摩書房(1999) 市古夏生.鈴木健一校訂
「カラー京都の庭」 (株)淡交社(1968) 竹山道雄著
「原色日本の美術10巻 禅刹と石庭」 (株)小学館(1967) 複数著者
「名宝日本の美術13巻 五山と禅院」 (株)小学館(1983) 関口欣也著
「古寺巡礼京都20 金閣寺銀閣寺」 (株)淡交社(1977) 複数著者
「天龍寺」 (株)東洋文化社(1978) 奈良本辰也監修
「京都大事典」 (株)淡交社(1984) 複数者編
「寺社建築の鑑賞基礎知識」 至文堂(1999) 濱島正士著
「日本の美術34 庭園とその建物」 至文堂(1969) 森蘊編
「日本の美術75 書院造」 至文堂(1972)  橋本文雄編
「日本の美術126 禅宗建築」 至文堂(1976) 伊藤延男編
「日本の美術153 金閣と銀閣」 至文堂(1979) 関野克編
「日本の美術197 平安建築」 至文堂(1982)  工藤圭章編
「日本の美術198 鎌倉建築」 至文堂(1982) 伊藤延男編
「日本の美術199 室町建築」 至文堂(1982) 川上貢

「西芳寺池庭縁起」1400(応永7)年 中韋急渓
「栖芳寺遇眞記」 1443(嘉吉3)年頃 申叔舟
「老松堂日本行録」 1420(応永27)年頃 宋希景
「蔭涼軒日録」 15世紀中~後期頃 亀泉集証
(「京都名園記」下巻「西芳寺巻」より参照)

西芳寺叢書(中)に続く 

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2007年2月15日 (木)

■初めての桂離宮

一介の酒司が桂別業についてあれこれ講釈するのは分不相応なのですが、些か気に懸る事もあるので試しに記述してみようと思います。
近年の「キョートブーム」なるものも相手伝ってか、此処の所桂離宮への参観者が著増しています。それ自体は喜ばしい事なのですが、「何故」わざわざ桂なのか一寸理解に苦しむ方々も居られます。往復葉書で申し込んでまで洛外まで御足労されなくとも、所謂「京都」を感受出来る史蹟は洛中に多々ありますし、桂以上の歴史を有する貴重な文化財もまた同様です。単に記念写真を撮りに行きたい方々には、参観日時や行動時間の拘束されない一般の名所旧跡をお勧め致します。

桂は鑑賞の仕方(解釈)が少々厄介な建築群.庭園で、ある程度の事前準備がないと「行った.見た.撮った」だけで終わっちゃいます。とは云っても別段庭園や古建築に対する特別な造詣が必要な訳ではありません(本当は必要なのですが…)。小学校の明日の授業の予習みたいなものです。以下、暇だったら読んでみて下さい。

準備1 あまり過剰な期待をしない
桂に関してはブルーノタウトやコルビュジュ、グロピウスを筆頭に(ついでに安藤忠雄も)、国内外の芸術家や建築関係者が日本文化の代表作として絶賛しています。故に権威主義に陥りがちです。(著名人が賞賛している→参観するも何だかよく解らない→自分は見識が無いのか→ソレハイケナイ→嗚呼矢張り桂は素晴しい=思い込み検証終了)
桂は意外と「好き嫌いが分かれる」林泉です。そのことは各々の感性に委ねて大丈夫だと思います。

準備2 大雑把な沿革の把握
これは語り始めると際限がないので極々簡単に(この点についての委細次項は「三度目の桂離宮(仮)」へ)。
桂離宮は江戸初期に造られた八条宮家の別荘です。従って「公家」の庭園であり、武家の大名庭園や臨済禅の方丈庭園とは様式が異なります。故に権勢の誇示を目的とした簡明且つ威圧的な作意(例.東照宮、二条城)や、禅宗的世界観を具現化、又は抽象化した作意(例.大仙院、竜安寺)は在りません。
桂の精神世界観の基底にあるものは源氏物語に代表される平安王朝文化への回帰とその再構築で、そこに各種様々な文化様式(浄土式.書院造.露地.西洋式手法等々)が重層的に折衷されています。

加えて複数の作庭者の意匠が幾重にも複合されている点も大きな特色です。造営着手から現在の規模に整えられるまでに約半世紀、親子二代に亘って数次の増改築が為され、その後も江戸中期や明治にかけても整備が繰り返されています。にも関わらず、意匠に統一性が保たれ、世界観は破綻を見せることなくと継承されています。
また罹災による焼亡や、造営者の意図しない改悪などを被る事無く、約三百余年後の今日に於いてもほぼ初期造営時の姿を留めている点でも極めて貴重な史蹟と云えるでしょう。

準備3 苑路内順路のスクーリング、及び各建築物(茶屋)性格の簡単な把握
桂は意図的に池泉の全貌が見渡せないように創られていますので、大体どういう順序で参観するのかは把握しておきましょう。同時に苑路内の建築物の位置(方位)も把握しておくと便利です(参観順路等は宮内庁HP等で簡単に調べられます)。
所要時間は約一時間強で賞花亭の辺りが中間地点、二度通る苑路は殆んど在りません。また予めタイムテーブルが決まっており、係員の誘導通りに見学するので自由行動は出来ません。(因みに書院内部と四腰掛、山上小屋跡、竹林亭跡は参観不可です)
あと、参観順に各建築物の最小限簡易な説明です。参考までにどうぞ。

  ・外腰掛 茶席の待合、松琴亭の付属的施設。  
  ・松琴亭 苑池中、最も格の高い御茶屋で庭園内の中心的役割を担う。  
  ・賞花亭 苑池内最も標高の高い所にあり、峠茶屋の性格を持つ。
  ・園林堂 宮家代々の位牌と仏像を安置する持仏堂。園内異色の禅宗建築。  
  ・笑意軒 田舎屋風の趣を持つ御茶屋、苑池中装飾性が最も強い。  
  ・書院群 雁行配列の高床式書院(居住施設)。三期に亘り築造され、古書院.中書                      院.新御殿からなる。  
  ・月波楼 書院群に隣接、楼閣建築の性格から観月施設の性質を持つ。

準備4 用意しない物
とりあえず最初はカメラの類は持っていかないことをお勧めします。「撮る」ことと「観る」ことの優先順位が逆転してしまい、また近景(軒打ちや雨落溝など桂の白眉とも云うべき所処)への視点が疎かになりがちです。時間の許す限り視感に拠って下さい。どうせ撮影場所がかなり限定されていますし、人だらけで良い写真など撮れる由もありませんから。

準備5 更に余裕のある場合
予め何か関連資料でも通読してから参観しよう、という方には下記の書籍がお勧めです。内容、入手共比較的簡易なものを挙げておきました。
 【日本の美術79 桂離宮 (森蘊編 至文堂.1972)】
桂離宮研究の第一人者による丁寧、簡潔な解説書。絶版本ですが古書店や古書検索サイト等で入手は容易。価格は1000円前後です。

それではいってらっしゃいませ。

※「桂離宮 再訪」に続く

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■桂離宮.再訪

何だか難しいことはよく解らないが、心惹かれまた桂の地へ赴きたくなった貴方や、もう少し桂を詳しく知りたくなった貴方へ。

類型.相反.関連庭園の事前処理
八条宮各親王後水尾上皇.小堀遠州等々、桂と所縁のある人物の史跡を観ることにより、桂への理解度を深めてみましょう。これらを巡られた後に再度桂を訪れられると、また新しい魅力が見つかるかもしれません…

-修学院離宮-
後水尾院作の日本最大にて最高の自然風景式庭園、桂と並び寛永宮廷文化一方の雄。造営時と比べ各茶屋の消失や畦道の植松等、多少の変遷はあるも修学院を修学院たらしめる上茶屋からの景観は不変。正しく雄大、圧巻、絶句。
院は修学院造営中に桂へ三度御幸されており、その創意から大いなる影響を受けられました。特に上茶屋の池泉構成からはそれが顕著に窺えます。舟遊式を機軸として池泉に点在している(た)茶屋や船着場、土橋の配し方等々、桂との通有性が発見されます。また、苑路の要所に備えられた石灯篭や中茶屋客殿の装飾、といった意匠面からも同様の発見がされるでしょう。
そして最大の共通点は現存する庭園.建築群において、致命的な被災.改悪を免れて制作者の意匠が色濃く余しており、尚且つ美しさと並立している点ではないでしょうか。 

但し山麓の傾斜地と川畔の平坦地という立地条件もありますが、両別業の持つ「奔放豪快」さと「繊細緻密」な性質の違いは、そのまま後水尾院と八条宮様の気質の差異かもしれません。延いては両離宮の差異ともとれ、修学院が「精神を悠揚にさせる」ものなの対し、桂は「神経を鋭敏にさせる」もの、と云えるでしょう。(因みに桂との苑地面積比8:1に対し、建物延べ面積比は1:2)

-曼殊院-
寛永文化の中心を司るサルーンとして文化人交流の場となった曼殊院。書院と庭園の完成は明暦年間初期頃で、造営者は八条宮の系譜を汲む良尚法親王。時期的に智忠親王による桂増改修とも前後し、恐らく桂造営に関わった宮家所縁の工匠も参画したと思われます。
故に同書院は「小さな桂離宮」とも称され、製作者の創意(欄間、違い棚、釘隠しや引き手など)が細部にまで行き届いている点では桂に最も類似していると云えるでしょう。特に趣向的に新御殿、笑意軒に類似する点が多く見受けられます。庭園についても宮家門跡らしい公雅さを醸し出しており、枯山水でありながら禅刹のそれとは全く違った高尚な趣があります。

但し寛永文化様式後期の造営ということもあり、表面的な意匠がやや先走りしている点は否めません。古今東西問わず文化様式の末期になると、意匠の内的精神性(創意)よりも外的装飾性(技巧)が強調されてしまうのはよくある傾向です。
それでも装飾が煩瑣になり過ぎず、水準以上の気品と美しさ保っていられるのは宮家直系の才と見識の為せる業でしょう。

-仙洞御所-
桂に多大な影響を与えた小堀遠州の作庭、寛永期の造営でその時期は桂や修学院と重なります。しかし度々改造が加えられ、現存する庭園に遠州の作意は殆んど痕跡を残していません。また御所建築物は幾度も焼亡、嘉永期の火災以後は再営されず現在は跡地を残すのみとなっています
と云う風に造営初期と現在では景趣にかなり隔たりがありますが、寛永宮廷文化の資質は充分に承継されています。寝殿造を基幹とした舟遊式庭園と池泉に点在している(た)茶屋。緩やかで上品な汀線、一升石を用いた護岸など雅やかな意匠、東山山麓を借に取り込んだ眺望…。御所様式の一典型として桂との類似点も色々と発見されます。

しかし桂との決定的な相違項として、創意の「無味無臭」性があります。前述したように幾度と無く繰り返された改造により、造営者の趣向は希薄化し、庭園の持つ内的生命力は失われてしまっています。従って桂と仙洞御所の一番の共通項は、具体的な意匠よりも苑内を支配する公雅な空気なのかもしれません。 

※因みに造営初期の地割りは、切石を要した護岸を直線に組み合せた矩形状の池泉を有し、当時としてはかなり斬新な設計でした。その後、後水尾院により徹底的に改良が加えられ、現存する曲線的な地割りは後水尾色が強いと思われます。西欧流の直線的な設計は修学院の意匠からも汲み取れますが、遠州のデザインが余りに奇抜すぎた為に院の趣向にそぐわなかったのかは定かではありません。江戸中期と明治期にも遂次改造が行われ、現在に至ります。


-二条城-
唯一書院の雁行形式のみが類似点、但し美しさは比べようもありませんが…。規模.装飾の点で宮廷文化と武家文化の相違が如実に現れているので、桂との比較対照の題材として観ておくのも宜しいでしょう。智忠親王は中書院.新御殿増築前に二条城に行啓されており、書院の雁行形式はここでヒントを得られたのかもしれません。
因みに本丸には明治期に京都御苑から移築した旧八条宮(桂宮)邸があります。最早「ぬけがら」状態にて何の生命力も感じ取れませんが参考までに記述しておきます。


-西芳寺-
夢窓疎石中興以降、日本庭園全ての範。しかし応仁の乱にて壊滅的な打撃を受け、慶長年間に漸く再興着手されるも旧観に復することは叶いませんでした。桂造営時には昔日の堂宇は全て焼亡、池泉は恐らく今日に近い惨況になっていたと思われます(尤もこの頃はまだ「苔」寺ではありませんでしたが)。
親交関係や立地条件から考えて、智仁.智忠親王も度々行啓されていたのは間違いなく、池泉地割りや松庵(現湘南亭)、それに「西芳寺池庭縁起」から色々参考にされる事もあったように思えます。文献から推察できる往時の西芳寺からは現在の桂に相通ずるものが見出せるのですが…。
しかし今となっては、現在の桂から曾ての西芳寺を推し測れる事の方が多いのかもしれません。(西芳寺についての詳細は「西芳寺叢書」参照)

※「もっと桂離宮」に続く

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◆ガラス工房解説 1 【Baccarat】

Baccarat

1764年10月16日にパリから東に約400km、アルザス.ロレーヌ地方バカラ村に創立。時のフランス国王ルイ15世の勅許を受け、同地方の司教ルイ.ド.モンモランシー=ラヴァルによりサンタンヌ.ガラス社として創設された。但しその背景としては戦乱による経済の建て直し、失業者の救済、そしてボヘミアンガラスに対抗した自国産業の開設といった芳しくない諸事情があった。

この頃のガラス産業の時代背景としては 15~17世紀に興隆を極めたヴェネチアンガラスからヨーロッパ各地に拡がったファソン.ド.ヴェニス。それ以後北アルプスの二大ガラス生産地となるドイツ、ネーデルランド。18世紀前半からはより透明度と硬度の高いカリガラスに、緻密なエンヴレーヴィングやゴールドサンドウィッチといった高度な技術を駆使し一世を風したボヘミア。更には鉛クリスタルの発明によりガラス工芸に急激な進展を見せてきたイングランド。現在に想像されるガラス王国フランスの面影は微塵もなかった。
そんな状況下で当初は主にボヘミアの模倣品や鏡、窓ガラスなどの実用品を生産し順調に運営されていたが、フランス革命とナポレオンの没落により経営は急激に悪化し工場を閉鎖。 1816年、遂には売却を余儀なくされてしまう。売却価格は純金2845オンスで実業家エメ=ガブリエル.ダルティーグの手に渡るが、彼は以前にガラスエ場を経営しており、その後サン.ルイの重役を務め上げた若手の実力者であった。ダルティーグは社名をバカラ.ヴォネージュ工場とし、同年11月に工場最初の鉛クリスタル窯を稼動させる。パカラがクリスタルガラス工場へと姿を変える第一歩であった。

ダルティーグの手により会杜は再び順調に成長、フランスを代表するガラス工場となったが、 1823年に突然同僚の三人に工場を売却する。三名の共同経営者はピエール=アントワヌ.ゴダール=デマレを会長とし、杜名はバカラ.ヴォネージュガラス.クリスタル社となった。ゴダール=デマレは「最良の素材と、最高の職人の技術、これらの完壁性を将来に継承することが最も重要」と、品質重視、職人重視の気風を色濃く打ち出した。
1830年代からバカラは職人用の無料の住宅や学校を設立し、疾病、貯蓄、退職といった各種厚生基金を備える、といった当時としては考えられない最先端の福祉制度を充実させる。また工芸品としてガラスの芸術色も力をいれ、1923年出展したフランス産業製品博覧会で金賞を受賞する(1849年まで連続受賞)。1941年には現在にも続く初のグラスセット、銘品「アルクール」の販売。この時代以降、バカラは矢継ぎ早に新しいガラス工芸技術を取り入れ、名声を博していく。

32%の鉛含有率を誇る高品質のガラスを使用し、1846年よりぺ一パーウェイトの製作を開始、ミルフィオリと同時にサルファイドの技法を取り入れる。1855年には従来のエングレーヴィングに加えアシッド.エッチング技法を開発し、後に導入、大量生産を可能にした。1878年にはタイユ.グラヴィールにより、従来よりも深い彫刻をガラスに施す事が可能となる。同時に1855年にパリ万国博覧会で金賞受賞、1867.1878年の同博覧会では共に大賞を受賞するなどの栄誉を博し、名実共にヨーロッパを代表するガラスメーカーとなった。
また、フランス王室(1823年~)、ロシア皇帝(1896年~)を始めとし、トルコ、インド、日本といった世界各国の王室、皇室の特注品を手がけ「キングオブクリスタル」の名声を得る。それら以外にも、貴族のテーブルウェアといった実用品にまで、その高度な技術を注ぎ込み高品質なガラスを作り続けた。

三度に於ける万国博覧会での高評価で、国内外を問わず注文が殺到したバカラはその後の万国博覧会には出展せず会社としての設備充実と販売網の整備に当たる。この問ヨーロッパやアメリカではナンシー派を中心としたアール .ヌーヴォーが流行(1890~1910年頃)、新感覚の装飾美がデザインの主流を占めていく。ただ、バカラはジャポニズムの影響はたぶんに受けたものの、アール.ヌーヴォー自体にはさほどの影響は及ぼされなかった。一時期、カメオガラスなどの製作を試みるが短期間で中止し、あくまでクリスタルガラスの素材特性を生かした上で、青銅とガラスの組み合わせなど新しいスタイルを発展させていく。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけ、香水瓶の受注が急増しその為に彫刻工房を増設、新たにバカラの一分野を形成するほどに至る。

バカラは 1916年からジョルジュ.シュバリェをデザイナーとして迎え入れる。アール.デコ期と重なって簡素なフォルムにカッティングの装飾美を引き立たせたモダンなデサインや、カトラリーの大手であったクリストフル社とのコラボレーションにより、ガラス製品と生活領域の統合を試みた。また「レイラ」「ローズ」シリーズなど、クリスタルガラスのラインナップを格段に充実させるなど、第二次大戦を挟んで彼の進んだ方向性は、現在のバカラ様式に密接に関連している。

現在、バカラはフランスの高級ハンドメイドグラスの 50%以上を生産している。更に販売量の半数以上が輸出用であり、世界中の王侯貴族、公大使により愛用されている。その理由は前述した「最良の素材と、最高の職人の技術、これらの完璧性を将来に継承することが最も重要」というゴダール=デマレの言葉に集約されているであろう。
素材であるが、通常クリスタルグラスの原料における酸化鉛の含有量は 24%程度であるが、バカラの場合は酸化鉛が30%以上含まれており、レッドクリスタルと呼ばれる屈折率の高いものである。バカラ独特の重量感と、指で弾いた際の高く澄んだ金属音はこの原料の比率と調合による。バカラを愛用する歴代王族が早世するのは、この鉛の含有量が高い為、何代にも渡り蓄積されるからである、という信密やかな噂が飛び交うほどである。
また、深く繊細なカットが施せるのも、鉛含有量由来のガラスの柔らかさと弛やかさによるものであるが、それを可能にできるのも職人の高度な技術があってこそである。MOF( フランス最優秀集職人、日本における人間国宝 ) の称号を受けた職人が常時40人以上製作に携わっているからこそ、常に高品質なものを作り続けられる所以であろう。

更にグラスのデザイナーも、ガラス専門の専属デザイナー以外に服飾、インテリア、芸術家といった他領域のゲストデザイナーを多岐に渡り招聘している。その面々はサルバトール.ダリ、セザール等といった錚々たる顔ぶれである。1999 年には日本画家の千住博が東洋人として初めてバカラのデザイナーに選出され、ダリ以来のアーテイスト・コレクション四作目を担う。

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◆ガラス工房解説 2 【St.louis】

St.louis

1767年2月17日、バカラと同じくアルザス.ロレーヌ地方のミュンツァールに創立。元々、同地には1586年に建てられたミュンツァールガラス工場があり鏡や板ガラスなどの実用品を生産していたが、四次に渡る30年戦争で荒廃してしまう。そこでガラス製造会社のM.ルネ=フランソワ.ジョリー社により、工場を復活させる提案がなされ、国王ルイ15世は認可と「サン.ルイ.ロイヤルガラス工場」の名称を与えた。サン.ルイとはカペー王朝、聖人ルイ9世の別称である。

サン .ルイも創立後初期はボヘミアの模造品や実用品ガラスなどを生産していたが、1780年に工場長ド.ボーフォールがフランスで初めての鉛クリスタルグラスを導入、翌年には生産に着手していく。クリスタルガラスのサン.ルイとしての第一歩であると同時に、この後クリスタルガラスの技術はバカラやヴァル.サン.ランベールなどに伝わり、ヨーロッパのクリスタルガラス工業の発展に大きく寄与することとなった。

19世紀に入ると、サン.ルイはクリスタルガラスの生産に増々専化していく。またアメリカで発明されたプレスガラスの技術を取り入れ、生産能力を格段に向上させる。その結果、当時としては初めてのクリスタルのテーブルウェアを販売、当時台頭してきた高級貴族層に珍重された。1830年には社名を「サン.ルイ.クリスタル社」に変更、1832年からはバカラ、ジョルジ=ル.ロワといった大手ガラスメーカー数杜と提携し販売代理店ローネー.オタン.エ.カンパニーを設立、販売網の整備拡張を図った。(同社は1857年に解散、買収、合併を経て最終的にはサン.ルイとバカラだけが存続)

19世紀中期以降には、綴密なエングレーヴィングやカット技術により優れた製品を生み出し、1845年にはサン.ルイの名を世界的に広めるぺ一パーウェイトを発表する。ミルフォイリ、カメオ技法、ランプワークなどを駆使し、バカラやクリシーと共に人気を博し、特にミルフオイリのぺ一パーウェイトはサン.ルイの代名詞ともなる。また1890~1910年間には、被せガラスにカメオ彫刻を施したもの多数制作する。これらアール.ヌーヴォー様式の作品は「ダルジャンタール」の銘が入れられ、ナンシー様式、特にエミール.ガレ色の強いものが多い。
ただ、時を同じくして、バカラなど他の工房が万国博覧会で独創性溢れる作品を発表し人気を集めるのに対し、サン.ルイは美術的創造性の強い作品には乏しかった。またペーパーウェイトブームの終焉などもあり、徐々に時流から取り残されていく事になる。

しかし、伝統による高い技術やオリジナリティともいえるテーブルウェアの品質は不変で、世界の元首や大使館の晩餐で愛用されている。特に 1913 年に発表された「ティスル」に代表される金彩を施した優雅なテーブルウェアは、ぺ一パーウェイトやカラークリスタルと共に現在のサン . ルイの典型と言えるものである。

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2007年2月16日 (金)

■五山派及び臨済七派① 南禅寺

南禅寺(瑞竜山太平興国南禅々寺)  http://www.nanzen.com/
臨済宗南禅寺派大本山  末寺数 426
・山内塔頭 13 南禅院 天授庵 帰雲院 金地院 聴松院 南陽院 真乗院
         高徳庵 正因庵 牧護庵慈氏院 正的院
・山外塔頭 1 光雲寺


歴史沿革
南禅寺の発祥は、亀山天皇が実母大宮院の為に造営した離宮に由る。現在の別院南禅院辺りがその創建地で、禅林寺(永観堂)が近くにあった事から禅林寺殿の名がつけられた。
後に退位落飾した亀山法皇が1291年(正応4)、東福寺三世であった無関普門(大明国師)を開山に迎え離宮を「禅林禅寺」と改める。次いで実質的な開山とされる規庵祖円(南院国師)が二世住持となり、堂宇の無い寺院を整備し十五年をかけて七堂伽藍が建立された。その間に寺名も、禅林寺の南に位置することにより南禅寺と改められる。
大覚寺統天皇や足利将軍家の庇護を受け、寺格も後醍醐天皇により五山之一、次いで足利義満の時には「五山之上」とされ、京都鎌倉の禅宗寺院最高位を誇る。比叡山僧兵との兵乱なども勃発するが、夢窓疎石ら高僧が住持し寺勢は繁栄、約十万坪の境内を有する大禅刹となった。しかし二度の大火により一山焼亡、その都度再建するも再度応仁の兵乱により七堂伽藍尽く焼失、廃絶に近い打撃を受ける。

その後桃山期以降、豊臣.徳川の庇護を受け漸く再興に向かい境内を整えるに至る。現存する堂宇も殆んど同時期の移築、再建によるものである。この際の各建築物の寄進取り付け、財政面などは二百七十世住持、以心崇伝の政治的な力によるところが大きい。「黒衣の宰相」と呼ばれ、家康の腹心であった崇伝が住持となることにより幕府との関係が強まり、南禅寺は京都公家、寺社勢力の監視拠点とされた。


本坊庭園 (江戸.国名勝)
小堀遠州の作とされ、作庭時期は大方丈(清涼殿)移築後の慶長~寛永初期と考えられる。遠州は近世作庭の名手で、同時期に同別院金地院( 1629年頃)をはじめ二条城二の丸、孤篷庵(大徳寺塔頭)など多くの作庭を手掛けており、また建築家、茶人としても優れた人物であった。

南禅寺南庭は禅院式後期枯山水の典型的作風をもつ平庭で、奥行きやや深めの長方形、左手奥に遠景、右手前に近景をおき、遠景の築地塀添いを中心に石組、樹木が据えられている。これらは敷地のバランスを考え、右方に向かって組み流され、その対比として、手前の大部分が大川を意とした白砂で敷き詰めている。石組の意匠は「虎の子渡し」として有名であり南禅寺南庭はその代表とされている。
これら庭園の構成は作庭当初の意図を踏まえ、殆んど変わりなく現在に伝えているが、築地塀越しに窺えた東山の借景は、昭和期に新築された庫裏によって遮られてしまっている。


主要建築物
三門(江戸.重文) 
1628年(寛永5)、藤堂高虎の寄進。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。東福、大徳、妙心寺と同形式を持つが、特に木太く重厚な典型的禅宗式三門。江戸期にありながら中世古式を伝える。
方丈(桃山.国宝) 
大方丈は1611年(慶長16)に内裏清涼殿を下賜。豊臣秀吉が天正期頃に造営したものと思われ、単層入母屋、寝殿造。近世寝殿建築を伝える貴重な遺構である。小方丈はその背面北側にあり、伏見城の遺構とされるが確証は無い。北面は切妻、大方丈に比べ豪快な造り。大方丈の付属的性格で、内方丈的性格も持たない特殊な存在である。
勅使門(桃山.重文) 
1641年(寛永18)御所内裏の日御門を拝領、移築。檜皮葺、四脚門。造営自体は慶長期と思われ、桃山建築の特徴をよく表している。
法堂(明治) 明治42年の再建。
僧堂(大正) 大正7年の再建。
庫裏(大正) 大正8年の再建。

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■五山派及び臨済七派② 天龍寺

天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)
臨済宗天龍寺派大本山  末寺数 105
・山内塔頭 9 慈済院 三秀院 松巌寺 妙智院 寿寧院 弘源寺 宝厳院 
        永明院 等観院
・山外塔頭 2 臨川寺 金剛院


歴史沿革
この地の由来は、平安初期に嵯峨天皇の檀林皇后が檀林寺を建立したことに始まる。後に檀林寺は荒廃するが、その跡地に後嵯峨 .亀山上皇が仙洞として離宮(亀山殿)を営んだ由緒ある場所である。また後醍醐天皇が青年期に修行された因縁の地でもあった。
禅寺としての建立は、 1339(暦応2)に足利尊氏、直義が後醍醐天皇の菩提と元寇以来の戦没者供養の為の勅願寺として、近隣の臨川寺に住持していた夢窓疎石を開山とし亀山殿跡に創建したもので、武家によって京都に建てられた初めての寺院でもある。当初は北朝元号に依って暦応寺としたが、延暦寺が名称に意義を唱えた為に天龍寺と改称した。直義が金龍の夢を見たことに由るとも云う。

足利幕府の強力な庇護と天竜寺船の莫大な運上利益もあり、寺勢は繁栄を極め、塔頭子院百五十余、境域も広大な巨刹となり、寺格も室町中期には五山之一に挙げられた。また、臨川寺、清涼寺と共に一大寺院群を形成し嵯峨の都市化を促進、洛中に並ぶ都市化、経済活性化を即していった。

しかし檀越の足利家が没落し寺領も疲弊、幕府の衰退と共に寺運も衰えていく。また創建後、応仁の乱や天明の大火など兵火に遭うこと 8 回、特に 1864( 元治元 ) 、禁門の変に関し、長州藩兵の屯所となっていた為、幕府軍の攻撃に遭い、一山焼失した。現在の建物は殆んどがその後、明治から昭和期にかけての再建である。


本坊庭園 (室町.世界文化遺産 国地・特別名勝)
夢窓疎石の作とされ、作庭時期は 1340~1345年頃と推測される。亀山離宮創建時、既に池泉庭園の造られた形跡があり、禅寺に改めた際に同師の改庭が入ったと思われる。疎石は作庭の名手で、同時期に西苔寺(1339)、また甲府恵林寺、鎌倉瑞泉寺、亀山離宮(南禅院)なども手掛けたとされる。堂宇は燃亡を繰り返し創建当時の遺構は残っていないが、庭組は当初に近い形で姿を残しており鎌倉期の「作庭記」手法を現在に良く伝えている。

庭園は池泉回遊形式をとっているが実質鑑賞本位である。曹源池を中心に対岸に築山、左右両幅を広く引き、借景には嵐山、亀山を配して壮大、優美な大和絵の如しである。また滝口周辺の荒磯風石組は水墨画の如く重厚、剛健である。これら寝殿造形式と鎌倉禅宗文化を折衷、見事に融合させた点でも見事である。
曹源池中央奥に位置する滝口及び周辺の橋石、岩島群は特に見所である。現在は涸れてしまっているが、築山から流れ落ちる滝口は三段の石組からなる龍門形式。疎石独特の荒厳な石立組で北宋山水画の手法で表現されている。また滝口下の石橋組は三つの自然石で構成、日本庭園最古の自然石橋組である。前方にある岩島は三尊形式、釈迦、普賢、文殊を表している。その他にも、出島状に二つの鶴島亀島を配すなど、池泉全体の構成、石立のバランスなど見事に作り上げられている。


主要建築物
勅使門(桃山) 伏見城の遺構とされる。切妻、檜瓦葺の四脚門。山内最古の古建築。  
中門(江戸) 禅宗様の四客門。多数の改造跡か見られ、荒廃期に何度か補修されたと思われる。
法堂(江戸) 明治33年の再建。選佛場を移築したもので、その為に法堂としては異例の寄棟造。
大方丈(明治) 明治32年の再建。
小方丈(大正) 兼書院。大正13年の再建。
庫裏(明治) 明治32年の再建。 

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2007年2月17日 (土)

■五山派及び臨済七派③ 相国寺

相国寺(万年山相国承天禅寺)  http://www.shokoku-ji.or.jp/
臨済宗相国寺派大本山  末寺数 93
・山内塔頭 12 大光明寺 林光院 玉龍院 普廣院 慈雲院 慈照院 
         豊光寺 長得院 養源院 光源院 瑞春軒 大通院
・山外塔頭 3  鹿苑寺 慈照寺 真如寺


歴史沿革
足利義満の開基に由り、1382(永徳2)に花の御所(室町第)の東、内裏の北側に造営された。寺名の起源は義満の鹿苑院相国の名に由来する。義満は1367年天龍寺にて仏門に受衣しており座禅道場として建立、既に遷化していた夢窓疎石(国師)を追請開山、師と仰ぐ春屋妙葩を二世住持とした。1392(明徳3)にはほぼ堂宇も完成、八月に落慶供養が行われる。実質約四年での完成という異例の速さであるが、法堂(等持院)や方丈(畠山邸)等、幾つかは建物を移築する形で行われた。最盛期には五山の一に準じられ、七堂伽藍全てを兼ね備える威容を誇り約144万坪の境域を有していた。
完成の一ヵ月後には南北朝の統一も成るが、1394年に火災で伽藍は全焼、その後も義持、義教の代で落雷、出火、再建、造営を繰り返す。義政の代で再び旧観に復するが応仁の乱、天文の乱の兵火で再度一山焼亡、灰塵と化した。

桃山時代になり、1584 年( 天正12)から入山した西笑承兌住持により寺院再興に向かい、秀吉 . 家康らの援助を取り付けて漸く寺盛が整い始める。しかしまた火災にて建物の多くを失う。
江戸初期には後水尾上皇の寄進、庇護により、方丈(旧御殿の移築)、三重の宝塔、開山堂などが建てられるも1788年の天明の大火で法堂を除く殆んどが焼失及び被害を被った。現在の堂宇の殆どは江戸期近世以降の建築、又は修復による物である。


本坊庭園 (昭和)
本坊方丈南庭は一面白砂を敷き詰めた簡素なものであるが、正面に向唐門と法堂を配し景観に奥行きと豪快さを与えている。また方丈の北側と小書院の間に挟まれるように裏方丈庭園がある。こちらは深い谷を掘り数々の樹木を植込み、市内中央にありながら深山幽谷の景観を醸し出している。


主要建築物
法堂(桃山.重文) 
1605年(慶長10)豊臣秀頼の寄進。仏殿焼失後はこれも兼ね、本堂と証する。七間六間、重層裳階付切妻。山内のみならず、禅宗法堂では最大最古の建築物として貴重。
方丈(江戸) 
1807(文化4)の再建。南庭奥側に1841年(天保12)の平唐門有り。
庫裏(江戸) 1807(文化4)の再建。切妻妻入。
浴室(桃山) 1596(慶長元)の再建。
鐘楼(江戸) 1843(天保14)の再建、袴腰付鐘楼。大型のものでは現在有数。
経蔵(江戸) 1859(安政6)落成のもの。

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2007年2月21日 (水)

■五山派及び臨済七派④ 建仁寺

建仁寺(東山)  http://www.kenninji.jp/
臨済宗建仁寺派大本山 末寺数 70
・塔頭数 14 禅居庵 久昌院 両足院 霊洞院 興雲院 霊源院 
        西来院 大統院 堆雲院 大中院 清住院 常光院 
        護国院(開山堂) 正伝永源院
・山外塔頭  無し


歴史沿革
宋より帰朝した臨済宗の祖、栄西禅師によって 1202年(建仁2)に建立。土御門院の勅願、源頼家の開基として南宋の百丈山を摸して造営された。 鎌倉幕府の庇護下、京で最初の禅刹であり、延暦.仁和寺等と同じく格式の高い元号寺院である。(因みに黄竜派の流れを汲む臨済禅寺は日本では建仁寺派のみで、他の禅寺は黄檗宗を含め全て楊岐派である)

当初は旧仏教側の禅宗に対する反対、圧迫が強く、天台 .真言.禅の三宗建学の形で延暦寺末寺としての創建であった。創建後数度の火災に遭うが、東福寺開山円爾を十世に向え旧観に復する。また純然たる禅寺としては、宋より来日した蘭渓道隆(大覚禅師)が十一世住持として以降(1265年~)である。同時期に一時寺名を建寧寺と改めるが間も無く建仁寺名に戻す。室町期には足利幕府以外の庇護もあり、五山の三に列せられ寺盛は繁栄、最盛期には塔頭60余、荘園18ヶ所を有する大禅刹となる。また相国寺と共に禅林文芸興盛の中心を担った。

しかし、応仁の乱にて焼亡。更に 1552年(天文21)の火災にて七堂伽藍尽く類焼の憂目に遭う。法堂はこの際より再建されていない。天正年間以降(1573~)に東福寺住持安国寺恵瓊や有力武将などの援助により方丈や仏殿などが再建、復興する。現在の建物は殆んどがその後の再建である。


本坊庭園 (昭和)
加藤熊吉による昭和期の作庭。中国の百丈山から名をとり「大雄宛」という。築地塀添いに植樹と石組が見られるが、敷地の大部分が白砂敷で寝殿造南庭の趣もあり、儀式の場としての庭の要素が強い。しかし本坊方丈側からの眺めは遠景の法堂、近景の向唐門、左側の廻廊、築地塀と塀際の樹木といった白砂を囲むような配置構成が絶妙で、枯山水庭園としての趣も強い。


主要建築物
勅使門(鎌倉末.重文) 
平重盛の六波羅邸の移築と伝えられる。京内最古の総門で、矢の根痕があることから矢立門ともいう。銅版葺切妻。中央柱を棟木下迄延ばした禅宗式四脚門。
方丈(室町.重文) 
1599(慶長4)、安国寺恵瓊により曹洞宗の安芸安国寺より移築。造営は1487年。中世古建築としてだけではなく室町期曹洞宗の遺例としても貴重。室戸台風で被災後、復旧された。
三門(江戸)
大正期に浜松の安寧寺より移築。その為大禅寺では小規模、異例の三間二間二重門。
法堂(江戸) 1765年(明和2)造営。仏殿を兼ねる。一重裳腰付、入母屋、本瓦葺。

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■五山派及び臨済七派⑤ 東福寺

東福寺(恵日山)   http://www.tofukuji.jp/
臨済宗東福寺派大本山 末寺数 363
・塔頭数 25 万寿寺 退耕院 盛光院 霊源院 龍眠庵 海蔵院 勝林寺
        栗棘庵 善慧院 大機院 同聚院 霊雲院 一華院 天得院
        芬陀院 桂昌院 荘厳院 願成寺 正覚庵 光明院 永明院
        南明院 即宗院 龍吟庵 東光寺  
・山外塔頭 無し


歴史沿革
平安中期の延長年間 (923~31)、藤原忠平により同氏の氏寺として創建された法性寺を由来とする。その寺跡に摂政九条道家が開基として,法性寺を吸収する形で1236年(嘉禎2)より1255年(建長7)まで19年を費やして建立された。1243年(寛元元)には宋より帰朝したばかりの円爾弁円(聖一国師)を開山として招聘し禅刹とする。

当時栄華を誇っていた奈良の巨刹、東大、興福寺になぞらえて「東」「福」の字を取り寺号とし、天台 .真言.禅三宗兼学の寺院として26棟もの堂宇を備えた。しかし完成後約二十年の間に三度の火災によりその大部分を焼失し、1348年(貞和3)まで復興を要することになる。その間鎌倉から室町期にかけて純禅寺となり五山に列せられ、塔頭子院36を有する大禅刹となる。但し九条.二条家の氏寺であった為に足利幕府の保護は少なかった。また他の五山禅寺とは異なる点として、東福寺のみが開山以来の聖一派で住持を系譜し(他の五山派は十方住持制を採用)、東山湛照.虎関師錬.吉山明兆など多くの高僧を輩出した。

応仁の兵火にて堂宇の多くを失うが、中心伽藍は被災を免れる。戦乱が収まると豊臣秀吉や徳川家光の庇護にて復興に向かい寺観を整えた。その後近年に至るまで大きな被災も無く七堂伽藍の雄姿を誇っていたが、明治 14 年の火災により仏殿 . 法堂 . 方丈を焼失、これらはその後の再建による。しかし室町以前の古建築が多く残っており、伽藍配置もほぼ変化が無く、初期禅宗寺院の雰囲気が残された貴重な史蹟である。


本坊庭園
現代作庭の巨匠、重森三玲氏により昭和 10年代に作庭された。重森氏は庭園史研究家として鎌倉期以来の作庭法に通じ、他に龍吟庵.光明院(共に東福寺塔頭).瑞奉院(大徳寺塔頭).松尾大社など昭和の名庭を手掛けた。彼の作庭にノグチイサムが大きな影響を受けたことはあまりにも有名である。

本坊方丈四方に庭を廻らし、南庭は長細い地割りに豪快で斬新な石組、東庭は柱石を北斗七星に見立てて配する。西庭は刈込んだ皐月と砂地、北庭は苔と敷角石によりそれぞれ市松模様を表している。「八相の庭」と呼ばれるこの庭園は現代感覚のモダンさと伝統的枯山水が見事に融合され、特に距離感覚の表現手腕は絶妙である。


主要建築物
三門(室町.国宝) 
応永年間(1394~1428)足利義持の再建。禅宗寺院日本最古の三門。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。組物の基本構成は大仏様、外観は唐様と、両方を併せ持つ珍しい建造方式で、建立時の姿が再建時にも踏襲されたものと思われる。
禅堂(室町.重文) 
1347年(貞和3)頃の再建と思われ、現存する僧堂の中で唯一の中世禅堂遺構。七間四間、一重裳階付切妻、本瓦葺。これも唐様と大仏様の両様式を持つ。
東司(室町.重文) 
室町期唯一の東司遺構。禅宗寺院便所の古形式として類例が無く非常に貴重。七間四間、一重切妻。内部の施設は失われている。
総門(鎌倉.重文) 
本瓦葺、四脚門の総門。北条氏の六波羅庁のものを移築したとされ、通常六波羅門と呼ばれる。
浴室(室町.重文) 
1459年(長禄3)再建、これも禅寺建築物の遺構として貴重。内部は蒸し風呂形式。
月下門(鎌倉.重文) 
円爾弁円の仮庵の普門院を移築したとされる。切妻造、檜皮葺の小柄な四脚門。
偃月橋(桃山.重文) 
1603年(慶長8)建造、秀吉の侍女孝公尼の寄進による。木造単層切妻、桟瓦葺。
開山堂(江戸.重文) 
1823年(文政6)再建。屋上に閣を持つ珍しい建築。

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■五山派及び臨済七派⑥ 万寿寺

万寿寺 (廃絶 現在.東福寺特別寺格塔頭)

歴史沿革
万寿寺発祥の事由は白河天皇皇女郁芳門院の御堂を浄土教の皇室寺院とした六条御堂を初めとする。その後 1261年(文応2)、同寺住持であった十地覚空.東山湛照が東福寺開山円爾弁円に帰依し、東山が開山となり三宗兼学の禅宗寺院に改めた。1273年(文永10)に火災に見舞われるも東山が禅宗様式の七堂伽藍を造営、14世紀初めには入宋僧南浦紹明が入寺し純禅様とした。室町期には足利幕府により十刹之六、次いで五山之五に列せられ寺運は興盛していった。しかし1434年(永享6)には市中大火により再び類焼、堂宇再建をするも応仁の乱で焼亡、衰退していき中絶に至る。

天正年間 (1573~92)に同じ開山の所縁により、東福寺北側の三聖寺内に移転復興する。寺名を併称する二寺並立の形となり近代に及んだが、明治期に三聖寺は廃寺となり万寿寺名が残ることとなった。
元来の万寿寺寺地は現在の下京区万寿寺通高倉付近であった。しかし旧寺領は失われ、現存する遺構は皆無の為に資料には乏しい。

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2007年2月22日 (木)

■西芳寺 伽藍鳥瞰図

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---両図ともクリックして拡大。(詳細解説は西芳寺叢書中.下にて)---

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■五山派及び臨済七派⑦ 大徳寺

大徳寺(宝竜山) 
臨済宗大徳寺派大本山 末寺数201 
・山内塔頭 24 徳禅寺 龍翔寺 如意庵 真珠庵 養徳院 龍源院 大仙院 
         興臨院 瑞峯院 聚光院 総見院 黄梅院 三玄院 正受院 
         大慈院 高桐院 玉林院 大光院 龍光院 芳春院 孤篷庵 
         龍泉院 来光寺 雲林院
・山外塔頭 無し

歴史沿革
創建は1315年(正和4)、播磨守護の赤松則村が叔父である宗峰妙超(大燈国師)に帰依し、小庵を寄進したことに由来する。かつて平安期に淳和天皇の離宮(その後藤原道長ゆかりの雲林院となる)のあった由緒地である。
その後花園上皇より印宣を賜り、翌1326年(嘉暦元)に法堂の完成により正式に大徳寺となった。妙超の営んだ小庵大徳庵にその名を起源する。妙超は徹底した修禅を第一とした宋朝禅を唱え、寺の世俗的興盛を厳しく戒した。その禅風に花園上皇の帰依をうけ、後醍醐天皇からは「本朝無双之禅苑」の宸筒を賜るなど、五山の上位に列せられた。 
しかし新政崩れ足利幕府の時代になるとその関係を嫌われ、直義.義満から寺格を落とされるなど不遇を受ける。その中で1431年(永享3)自ら五山を脱し「林下」とよばれる在野の精神を持つ独特の禅風を培った。
その後応仁の兵乱など二度の大火により多くの伽藍を焼失するが、堺に戦禍を避けていた47世一休宗純により、堺の豪商や千利休など堺の町衆の援助を取り付け、同寺に帰依していた有力武将の支援もありを再興していく。
また、戦国期以降、豊臣秀吉が信長の葬儀を挙行、利休の大徳寺三門事件や、沢庵住持の流罪や後水尾天皇の譲位にまで発展した紫衣事件など歴史の舞台に登場する。

現存する堂宇は殆んど江戸寛永期の再建のものであり、現在、妙心寺と共に最も充実した禅宗伽藍を構える。また、本坊以外にも塔頭24を数え、壮大な規模を誇る。また、一休宗純に始まる茶の湯文化発祥の場としても著名である。利休、宗旦以来三千家との関わりも厚く、小堀遠州など茶人ゆかりの塔頭も多い。


本坊庭園(江戸.国特別名勝.史跡)
作庭者については「大徳寺誌」で百六十九世天佑和尚の作とされているが資料に乏しく、また作風から小堀遠州の名も挙げられるが、現在も確定されておらず不明である。時期については本坊方丈が建築された1636年頃(寛永年間)のものと思われる。
庭園は方丈の南面(主庭)と東面(側庭)の二つの平庭よりなる。南庭は築地塀添いに植樹と石立を廻らせ、白砂の敷地に大部分を割いた、後期枯山水の代表的形式である。この点では南禅寺方丈庭園と類似しているが、右手前に流れる近景を、白砂の中に配した庭石と周辺の苔、あるいは中央に置かれた砂盛と背後の向唐門といった要素により、全体の構成を中央に寄せている点が大きく異なる。
東庭は細長い長方形で、これも違った形での枯山水の典型である。奥行きのかなり浅い中、二重の刈込みの下に七五三の石組を列しているが、高さの平均値や逆末広がりといった構成を見事な遠近方法で表している。更に低い生垣からは,比叡山を望見し借景とし、あたかも真珠庵(大徳寺塔頭)と円通寺を併せ持ったかのようである。但し周辺の都市化に伴い、外界を遮断する為に生垣は高く繁らされ、借景は見難くなっている。


主要建築物
三門(桃山.重文) 
1592年(享禄2)に建立、但し一階部分のみの完成で二階は1589年(天正17)に千利休の寄進により完成。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。禅刹では東福寺に次ぐ古建築。
法堂(江戸.重文) 
1636年(寛永13)稲葉正則の寄進。現存する中では非常に大規模な法堂。七間六間、一重裳階付。典型的な禅宗様で、尚且つ法堂としての役割的性格をよく表している。
方丈(江戸.国宝) 
1636年(寛永13)後藤益勝の寄進。開山の三百年遠忌に際して建てられた。一重、入母屋で前後八室、奥に塔所のある特殊な形式。方丈南面に建つ唐門(国宝)は、明治期に勅使門西より移築。本願寺、豊国神社の唐門と共に、桃山の三唐門と謳われる貴重な遺構。
仏殿(江戸.重文)
1665年(寛文5)京の豪商那波屋常有による寄進。五間五間、入母屋、一重裳階付。禅宗様の仏殿であるが細部にはごく一部大仏様も混じっている。主要伽藍では最後の完成建築物。
勅使門(桃山.重文) 
諸説あるが、おそらく慶長期に内裏の御唐門を下賜されたもの。桧皮葺、左右切妻の四脚向唐門。桃山期の様式をよく伝えており、重厚。
庫裏(江戸.重文)

1636年(寛永13)の改修。方丈新築にあたり、旧方丈の古材を使用された。切妻と入母屋の複合で、平入側に唐破風の付く珍しい形式。

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■五山派及び臨済七派⑧ 妙心寺

妙心寺(正法山)
臨済宗妙心寺派大本山 末寺数約3400 
・山内塔頭37  雲祥院 海福院 金牛院 玉龍院 桂春院 衡梅院 光國院 
          雑華院 春光院 慈雲院 寿聖院 聖澤院 退蔵院 大心院 
          大雄院 大龍院 大法院 大通院 智勝院 長慶院 長興院 
          通玄院 天祥院 天授院 天球院 東林院 徳雲院 東海庵 
          如是院 蟠桃院 福寿院 養源院 養徳院 龍泉庵 隣華院 
          麟祥院 霊雲院 
・山外塔頭10  慧照院 龍華院 春浦院 龍安寺 西源院 大珠院 霊光院 
          多福院 仙寿院 金台寺


歴史沿革
元来、花園法皇の離宮であったが、同法皇の発願に由り1342年(康永元)に禅刹に改められた。大徳寺一世妙超の弟子、関山慧玄を開山に招聘し、当初は大徳寺に属する一子院としての創建であった。開基である花園法皇は同時に方丈後方に玉鳳院を建立、起居の場とし塔所とした。
しかし1359年(応永6)大内義弘の乱に際し、当寺が義弘の檀越であった為に足利義満により寺領没収、青蓮院に付与。その後南禅寺の付与となり一時中絶するに至る。暫くして南禅寺側の協力、細川家の援助もあり1432年(永享4)に大徳寺36世日峰宗舜を迎え中興。漸く再建へと向かうが、応仁の兵火により堂宇焼亡する。その後土御門天皇の論旨のもと細川勝元.政元親子や今川.武田.織田ら有力武将の援助により再興。
五山派の寺院が檀越の足利家没落により衰退していくのに対し、「林下」であった妙心寺は多くの戦国武将の帰依を受け寺勢を伸ばしていった。永正期には念願叶い、遂に大徳寺の末寺からの独立も果たす。その後も石田光成.福島.前田.池田など有力大名の帰依を受け、境内には多くの塔頭が建立され時運は隆盛する。最盛期には83もの塔頭を数え、そのうち武将の建立した塔頭は実38を数えた。

桃山から江戸初期にかけては七堂伽藍もほぼ整備され、現在に於いても近世禅宗寺院として最もよくその姿を残し、規模も最大を誇る。塔頭も今なおその数40余を有する。因みに今日の臨済宗で妙心寺派は総寺院数の約六割を占め、最大宗派である。


本坊庭園(江戸.国史跡・名勝)
作庭者、作庭時期共に詳細は不明であるが、大方丈、小方丈庭園共に本坊方丈の再建された直後の作庭と思われる。両庭それぞれ、各方丈の性格と相まってその姿は趣を異にしているが、いずれも平庭で南面に位置し、建物との調和が見事に取られている。
大方丈庭園は平庭一面が苔敷で寝殿造南庭の様式を汲み、公的儀式の為の色合いが強い。老松を二本相対して配しただけの、他に一切の木石を用いない簡潔な構成は静粛さも感じられる。その東側に位置する小方丈庭園は、やや狭めの平庭枯山水で、中央に野筋を立て三尊石と立石を組んだものである。こちらも簡素な形式で、飛石なども打たれ露地的な要素もあるが、小方丈の性格上居住の庭といった趣が強い。


主要建築物
三門(桃山.重文)
1599年(慶長4)建立。造営時期的から見ても、大徳寺三門と類似するところが多い。五間三戸二階二重門、入母屋、本瓦葺。純禅宗様の近世三門の代表例である。
仏殿(江戸.重文)
1827年(文政10)開山の三百年遠忌に際して建てられた。山内の主要伽藍では最も新しい。五間五間、入母屋、一重裳階付。典型的な禅宗様仏殿。
法堂(江戸.重文)
1657年(明暦10)造営。現存する最大規模の法堂で七間六間、入母屋、一重裳階付。仏殿より更にいっそう禅宗様式に沿った造りになっている。 
方丈(江戸.重文) 
大方丈は1654年(承応3)の改築、一重、入母屋、桧皮葺。本坊方丈らしく大規模だが、三室前後並列の簡潔な造りである。小方丈は本来、開山塔頭玉鳳院の方丈で1656年(明暦2)現在の大方丈東側に移築された。専属の庫裏を持つなど機能的な独立性が強く、内方丈的住居性格を色濃く持つ希少な遺構。
庫裏(江戸.重文) 1653年(承応2)上棟。一重、切妻妻入。巨刹の中でも特に大規模な庫裏である。
浴室(江戸.重文) 1656年(明暦2)の再建。江戸初期の建築様式をよく伝えている。
勅使門(桃山.重文) 桃山期の建築。切妻、桧皮葺四門脚。 雄大な蟇股が見られる。          

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2007年2月23日 (金)

■禅宗建築 伽藍概要

●伽藍配置

日本における禅宗寺院建立は中国南宋期の五山首位、径山万寿寺を模範とするところに始まる。その魁が鎌倉に造営された建長寺であり、その後の日本禅宗建築の基礎となった。鎌倉期に記された「建長寺指図(1331.元弘3)」から覗える主要な建築物の伽藍配置の特徴を表すと以下のようになる。

・ 総門、三門、仏殿、法堂が中心線上に配置。
・ 三門と仏殿間には参道を挟んで東に庫裏、西に僧堂が左右均等に配置。
・ 総門と三門間には参道を挟んで東に浴室、西に西浄が左右均等に配置。
・ 総門から仏殿に至る中央の参道には、左右に植樹(槇柏)が行われている。
・ 仏殿の奥やや東寄りに方丈が設けられている。
・ 境内のかなり離れたところに塔が設けられている。

これらの特徴はその後建立された円覚寺、東福寺といった創成期の禅宗寺院にもほぼ全て当てはまり、以後の大禅刹造営の範となる。但し火災や兵乱などの憂目により、創建時の寺観を留めている伽藍配置や堂宇は極めて稀である。



●七堂伽藍 役割と推移

禅宗寺院の規模の典型に適った堂宇のことを七堂という。ただ「七」は実際の数ではなく、各堂など諸堂宇を全て備えていることを表す。最も古い文献 ( 「尺素往来」 1400 年代 .一条兼良著 ) には以下のような建造物が揚げられている。   
      《 山門  仏殿  法堂  庫裏  僧堂  浴室  西浄 ( 東司 )》
また、これらの各堂宇を人体に準えて、その重要性を説明している場合もある。その他にも禅宗寺院における代表的建造物として、方丈、総門、鐘楼、経蔵などがある。

仏殿 
本尊を祭る仏堂。禅宗以外の古代寺院の金堂 . 本堂にあたる。伽藍の中心的存在あり、多くが方五間、一重裳階付と大規模である。但し五山寺院では戦乱や焼失により中世の遺構を残している寺院は無く、近世以降に再建され法堂と兼ねる場合が多い。法堂との兼用の場合、本堂と呼ばれているものもある。

法堂
経典、講義の聴講など仏法を講じる堂。「ほっとう」と読み、古代寺院の講堂にあたる。仏殿の後方に位置し、同格ないしはそれ以上の規模を持つ。一重裳階付が一般的。但し戦乱 . 火災等で焼失した後、殆どが再建されずに仏殿と兼用されている。本来の意で現存する法堂は、相国寺 . 大徳寺 . 妙心寺のみである。

山門 
仏殿前にある門。古代寺院の中門にあたる。大寺院では五間三戸、二階二重門形式の大きい規模を持つ。禅宗寺院でのみ、仏道修行の悟りを示す三解脱 ( 空、無相、無作 ) の門の意と略として三門ともする。現存するものは東福寺を除き、桃山 . 江戸期の再建である。

方丈
禅宗寺院において住持の居住、常駐する建物。伽藍の後方に建てられる。前方丈と内方丈があり、単に方丈と記されている場合、前方丈のことである

前方丈  大方丈 . 路寝ともいう。公の場で長老住持が接衆教化を行う場所。法堂的性格を持つ。だが塔頭の発達により教化の場を譲り、檀那応接や客殿的な場へと変わっていく。また小方丈の消滅により世譜住持の住居として、小方丈 . 庫裏的機能を持つ寺院も現れた。
内方丈  小方丈 . 小寝ともいう。私の場として住持が常住する場所で僧堂的性格を持つ。だが塔頭方丈の発達、私院化が進み、住持の住居的性格は塔頭方丈に移っていく。その為小方丈は早い時代にし衰退し姿を消すか、ないしは書院、客殿へと姿を変えていく。
 
僧堂 
僧侶が集団で起居する生活の場、及び座禅など修行する堂。禅堂 . 選仏場ともいう。古代寺院の僧房にあたる。中世以降、塔頭の発達により住居としての役割を塔頭方丈に譲っていくことになり、姿を消していく。残った物も選仏場として専化して機能をしていく。僧堂も中世のものは殆どが現存せず、禅寺としては東福寺を残すのみである。また近代以降では、新たに塔頭内に建設される場合が多い。
 
庫裏 
方丈に属する形で立し寺院の台所、貯蔵庫の役割を持つ。庫裡 . 庫院ともいう。切妻造妻側が参内を向いている事が多く、大きく独特の威容が覗える。近世、塔頭の発達により塔頭方丈が前方丈化し、庫裏は禅僧の居住性を持つようになる。また僧堂の衰退とともに食堂、喫飯の場ともなり、その役割も変化していく。やがて寺務局として寺院運営を主とする総合施設となっていく寺院も多く出現する。中には庫裏内の座敷が特化して書院、客殿となった所もある。

総門 
日常普通に使用される通用門。中門ともいう。勅使門の東側の並列されていることが多い。

西浄 
禅宗寺院内の便所。東司ともいう。実用的建築の為、現存する物は稀である。禅宗においては日常生活も修行の一部であり、浴室と共に重要視された伽藍の一つ。

浴室 
禅宗寺院内の浴室。現在の浴室とは異なり蒸し風呂形式であった。これも遺構は稀である。

鐘楼 
梵鐘を吊るす建物。中世の古建築のものは現存しない。普通袴腰付形式である。

経蔵 
経典を収めておく書庫。禅宗創期の伽藍配置では、山門の脇が常とされていたが、現在ではそれぞれ独立して建てられている。屋根の高い裳階付の輪蔵形式。

勅使門 
天皇、上皇の御幸の際など、特別の来賓を招く際に開かれる門。その為御幸門ともいう。通常は三門 . 仏殿の中心線上正面にあることが多い。総門の西側に位置する。

開山堂 
開山(祖師)の墓塔。祖師堂ともいう。仏殿内に内置されている場合もある。また方丈と兼ねている場合、昭堂 .礼堂ともいう。が主である。

放生池 
不殺生戒を重視し鳥獣を供養する為に設けられた境内の池。旧暦の 8 月 15 日に池に魚を放ち供養する営みを放生会という。

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  【主要伽藍の役割推移】
    (クリックして拡大)


               

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【現存する主要伽藍の造営時期】
   (クリックして拡大)




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■五山十刹 解説

●五山十刹

臨済禅寺の寺格を表す言葉で、上位に五山、次いで十刹、その下に諸山が置かれた制度。南宋の径山.霊隠.天童.浄慈.育王の名刹を五山とする官寺制度に倣ったものである。また寺格の権威選定だけではなく、法流に拘らず高僧を招聘し住持とする制度(十方住持制)でもあった。但し不変の寺格制度ではなく、歴代天皇、幕府将軍の権勢により順位は変動していく。
日本では鎌倉幕府により先に鎌倉五山が定められたが、幕府の滅亡、建武中興の失政等があり、数次の寺刹選定.寺格の変更を経緯して定着する。最終的には足利義満が鎌倉五山と共に京都五山を定め、更に南禅寺を「五山之上」の格付けとした。以後五山は京都優位となりこれを基準として踏襲される。同様に十刹も京都、関東に区別して定められるようになった。
但し「十」は実際の数ではなく、最も多い際には四十六の寺院を数える。また十刹同様、五山の下に諸山、京都.鎌倉尼五山も備えられた。しかし現在、五山の万寿寺は遺構が細々と残るのみで既に現存しない。また十刹も多くが廃寺となっている。


変遷 

鎌倉後期  北条貞時.高時により建長寺.円覚寺.寿福時.浄智寺.浄妙寺が五山の称号を与えられる。

1299(徳治2)  京都南禅寺もこれに列せられる。

1333(元弘2)  後醒醐天皇により京都大徳寺が五山之一に加えられる。  

建式年間(1334~1336)   後醒醐天皇が以下の寺位を定める。但しこの間、大徳寺が五山之上、建仁寺が五山之一となったり、不確定である。

 ・五山   第一南禅寺  準第一大徳寺  第二東福寺  第三建仁寺  第四建長寺  第五円覚寺

1341(暦応4)  足利直義が八寺を五山、他十寺を十刹と定める。(扶桑五山記)

 ・五山  
  第一建長寺・南禅寺 第二円覚寺・天龍寺 第三寿福寺 第四建仁寺 第五東福寺 次位浄智寺                                  

 ・十刹  
  第一浄妙寺(鎌倉) 第二禅興寺(鎌倉) 第三聖福寺(福岡) 第四万寿寺(京都) 第五東勝寺(鎌倉)       
  第六万寿寺(鎌倉) 第七長楽寺(上州) 第八真如寺(京都) 第九安国寺(京都) 第十万寿寺(大分)

1358(延文3)頃 寺格改定。  
       
 ・五山  
  第一建長寺・南禅寺 第二円覚寺・天龍寺 第三寿福寺 第四建仁寺 第五浄智寺・浄妙寺 
  次位東福寺・万寿寺

 ・十刹  
  第一禅興寺(鎌倉) 第二聖福寺(福岡) 第三東勝寺(鎌倉) 第四万寿寺(鎌倉) 第五長楽寺(上州) 
  第六真如寺(京都) 第七安国寺(京都) 第八万寿寺(大分) 第九清見寺(駿河) 第十臨川寺(京都)

1380(康暦2)  鎌倉五山と共に京都五山を区別。

1386(至徳3)  足利義満により以下の寺位が最終的に定められた。自ら創建した相国寺を五山に列する為,別格の五山之上を定める。(カッコ内は現在廃寺)

 ・五山之上  南禅寺
 ・京都五山  第一天龍寺 第二相国寺 第三建仁寺 第四東福寺 第五(万寿寺)
 ・
鎌倉五山  第一建長寺 第二円覚寺 第三寿福寺 第四浄智寺 第五浄妙寺
                          
 ・京都十刹  第一(等持寺) 第二臨川寺 第三真如寺 第四(安国寺) 第五(宝幢寺)
          第六(普門寺) 第七(広覚寺) 第八妙光寺 第九大徳寺 第十龍翔寺

 ・関東十刹  第一(禅興寺) 第二瑞泉寺 第三(東勝寺) 第四(万寿寺) 第五(大慶寺)
          第六(興聖寺) 第七東漸寺 第八(善福寺) 第九(法泉寺) 第十長楽寺
         
 ・京都尼五山  第一(景愛寺) 第二(檀林寺) 第三(護念寺) 第四(恵林寺) 第五(通玄寺)  
 ・鎌倉尼五山  第一(太平寺) 第二東慶寺 第三(国恩寺 第四(護法寺) 第五(禅明寺)

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2007年2月24日 (土)

◆ガラス工房解説 3 【Lobmeyr】

Lobmeyr

1822年11月、オーストリア北部グリースキルヒェン出身のヨーゼフ.ロブマイヤーがウイーンにガラスショップを創設したことに始まる。この時代のボヘミア周辺は既にガラスの一大生産地域となっていた。同地域はローマ、ヴエネチアと違い山間部に位置する為、伝統的にカリガラスを使用していたが新技法により透明度の高いカリ.クリスタルガラスが開発され、特に17世紀後半からその特性を生かしたボヘミアングラスがヨーロッパの市場を席巻していた。
そんな中、ヨーゼフもカリクリスタルのグラスセットの仕入販売を行い、当時台頭してきた新興ブルジョアジーの嗜好とも相まって事業は順調に推移した。 1823年には表通りの広い店舗に移転、やがてデザインも行うようになる。1835年にはハプスブルグ家皇帝フェルナンドー世にシャンデリアとグラスセットを納め、翌年には早くも「皇帝御用達」の勅許を受ける。また1851年からは、ビンペルクのマイヤーズ.ネッフェ社と提携してボヘミアとの関係を深めていく。

1855年、ヨーゼフが死去するが息子のヨーゼフJrとルードヴィヒの兄弟が二代目となり、1860年に社名を正式に「J&Lロブマイヤー」とする。同年、「オーストリア王室御用達」の勅許を受けた。その後も1867、1878、1900年のパリ万国博覧会などを筆頭に各種博覧会で金賞、銀賞を受賞する。同時期にシェーンブルン宮殿やウィーン学友協会ホール、ザッハホテルなどのシャンデリアにも着手、「シャンデリアのロブマイヤー」の称号が輝きを放つようなる。19世紀後半からフランスを中心にアールヌーヴォーの波が押し寄せてくるが、相容れないスタイルとは迎合せずロブマイヤーは距離を置いた。
1917年にルードヴィヒが他界した後、甥のシュテファン.ラートが跡を継ぐ。シュテファンはウイーン工房(反アール.ヌーヴォー派によって設立されたガラス工房)のヨーゼフ.ホフマンを美術部長に迎える。彼はロブマイヤーの伝統的スタイルを守りつつ、バロック風の古典的デザインやアールデコ期の幾何学的でモダンなデザインを見事に融合、昇華させた。特にシュヴァルツロット技法による黒色文様はこの時代の代表的形式であった。また、ボヘミア各地に自社ガラス工場を設立、同地の伝統的デザインや装飾技術を吸収していった。因みにこの時代には「パトリシアン」を筆頭に、「ベルヴェァーレ」「チロル」「アンバサダー」などの名作が発表され、現在でも作り続けられている。
しかし第二次大戦が始まり、シュテファンはオーストリアを離れなければならなくなる。息子のハンス .ラートが四代目となり戦火を逃れながらも制作は継続された。この時期、スワロフスキーの工場で仕事を続けている。ようやく戦争が終わるとハンスは被災した教会など、バロック建造物の修復に力を注いでいった。

そして 1966年、ロブマイヤーを再度世界に知らしめ、その評価を不動のものとした作品が完成する。ニューヨーク、ニューメトロポリタン.オペラのシャンデリア。オーストリア政府が戦後の復興の為、多大な援助を受けたアメリカに対しての感謝の意を表し贈呈したものである。その後、旧ソ連クレムリンホール、中近東宮殿などのシャンデリアや、世界各国の政府関連、王族貴族などへのテーブルウェアなど次々と依頼は舞い込んだ。だが自動車事故でハンスが急逝、ハラルト、ぺ一ター、ヨハネス.シュテファンの三人の息子が共同経営する形で再出発する。彼らは伝統であるシャンデリア・グラスセットの他に、1970年代になって世界的な高まりを見せてきたスタジオガラス.アートの制作を試みる為、新しい工房を設立するなと新機軸の展開も試みた。

現在ロブマィヤーはウィーン工場のみで制作を行っており 、 ハラルトの息子、アンドレアス .ラートが六代目として就任している。高級アートガラス愛好家からは依然として高い人気を誇っており、その理由はロブマイヤー独自の、世界屈指と言われる技法と高い芸術性に起因している。
特にホイールエングレーヴィング技術は世界最高峰のレベルを有する。一般的に使用されるダイヤモンドではなく、銅製のコパーウィールを用いることにより、切り口の柔らかい、繊細でかつ立体的な表現が可能であるが、熟練した職人の高度な技術が要求される。文様の周辺を彫りこむことにより、浮き出たように見える「レリーフ (カメオ)」と、文様そのものを掘り込み、その深みの微妙な差異によって立体感を出す「インタリオ」を駆使し、ロブマイヤー独特の、繊細で柔らかく、ぬくもりすら感じさせる装飾が施される。
またもう一方で、カリクリスタルの硬質で軽い特性を生かした宙期吹きの極薄グラスもロブマイヤーの伝統によるもの。モスリン.グラスと呼ばれるこれらは「そよ風に吹かれてグラスが弛んだ」という伝説を生んだ。透けるような薄さと持ち心地の軽さ、唇に触れた際の絶妙の触感は他では見られない。

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◆ガラス工房解説 4 【Moser】

Moser

1857年、ルートヴィッヒ.モーゼルによって「モーゼル.ガラス工房」として創立、チェコ.ボヘミア北部のドイツ国境近くカルロヴィ.ヴァリーに工場を構えた。当初はガラス研磨工房であったが、次第にガラス職人を招聘、ボヘミア伝統のカリ.クリスタルガラスでグラヴィール技法のガラスを生産していった。同地は中世からのヨーロッパ最大の温泉地であり、各国の王族貴族、芸術家などが頻繁に保養に訪れていた。そこで、モーゼルの卓越した装飾技術のガラスは彼らの眼に留まることとなる。
19世紀後半から20世紀にかけて、モーゼルのテーブルウェアはオーストリア皇帝フランク.ヨーゼフの宮廷御用達勅許を受け、ボヘミアンガラスを代表する存在となる。また、英国キング・エドワード7世、ノルウェーのハーコン7世などの各国王侯や、作家オノレ.ド.バルザックといった芸術家にも愛用され、国内外を問わず「キング.オブ.グラス」の名声を獲得した。同時に1870年代には高まる需要に対し、ペテルスブルグ、ニューヨーク、ロンドン、パリ各国に販売の拠点を構え、1895年には念願のガラス素地工場も完成、経営面にも品質面にも更なる向上を目指す。そして1900年にルートヴィッヒは経営を息子に、ガラス製作面ではカルロヴィ.ヴァリーの職人に信頼を預け引退する。

創業以来、一貫して透明素地のガラスを作り続けていたモーゼルだが、アール .ヌーヴォーの時代に入ると伝統技法を応用して新たな様式のガラスを製作する。透明ガラスの上から緑、紫といった色ガラスを被せ、写実的な草花文をレリーフカットした作品を多く展開していく。元来グラヴィールが御家芸であるから、その出来映えは言うまでも無く見事なもであった。またこの時期には「マハラニ」「マリアテレノア」「パウラ」といった現在にも続く銘品テーブルウェアが作品化され、ジョゼフ.ウルパン、ルドルフ.ヒレルなど優れた個人デザイナーが活躍した。
続くアール .デコ期も、ウィーン工房のデザイナーを招聘しモダンなデザインは取り入れながら、カットやグラヴィールを基盤とした透明ガラスの伝統的装飾といったモーゼル独自のスタイルは守り続けた。また1922年には、絵付けや乳白色ガラス制作に秀でた南ボヘミアのマイヤーズ.ネッフェを買収し、技術力と生産力の向上に取り組んだ。こうしたモーゼルの姿勢は1900年のパリ万国博覧会で銀賞、1922年には世界で初めて希土酸化物を使った「貴石カラー」のガラスの開発成功、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会での金賞といった形になって表れる。

モーゼルの技巧的本領は、カリ .クリスタルの性質を生かしたボヘミア伝統の繊細なエングレーヴィングとカッティングにある。通常より非常に深く彫り込み文様を装飾する「ディープエングレーヴィング技去」は、より立体的、絵画の様に文様を表現することが出来る。またカッティングにおいても、多角形を面とりにカットし、あたかも宝石のように彫刻する「ファセット.カット」はモーゼルが得意とするところである。これら伝統技術に加え、近代に開発された貴石ガラス(色ガラス)は、調光具合や光線の種類により微妙に色彩を変化させる。これも他のガラスメーカーの追随を許さない、世界に誇る技術である。
現在においてもモーゼルはヨーロッパや北アフリカを中心に、世界中の皇族、国家元首の依頼を手掛けその信頼を不動のものとしている。それは一時的な流行に流されず、自社の誇る伝統的工芸手法に依っていつの時代も変わらぬ普遍的な価値の製品を創り続けていることにある。

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2007年3月 5日 (月)

◆ガラス工房解説 5 【Fritz Heckert】

Fritz Heckert

1866年に創業、ドイツ(プロシア)、ポーランド.チェコ(ボヘミア)、オーストリア.ハンガリー(ハプスブルグ王朝)の国境地域、シュレジア地方に工房を構える。この地域は13世紀頃から伝統的なヴァルトガラスの一大生産地域であった。しかし時々の勢力によって統治国家が二転三転したこともあり、詳しい資料が少ないガラス工房である。

創業当時は 17、18世紀の様式を模したオールドジャーマンデザインが多く作られていたが、その後アーツ&クラフト運動の影響を受け、カール.ケッピングやツヴィーゼルと共に保守的なドイツガラス産業界をリードしていく。 フリッツヘッカーはキプロスデザイン (エジプト・ペルシャ様式)の装飾を好んで用い、ゴールドギルドに更にエナメルやラスター彩をかける手法を得意としていた。アールヌーヴォー期には1900年のパリ万博で金賞を受賞したことも記録に残っている。
1900年代にはマックス.レイド、ルードリッヒ.ジュッタリーン、ウィリー.マイツェンといった著名なデザイナーを招聘、またアドルフスコープを始めとするベルリン美術学校の教授陣が後を継いだとされる。この頃はカメオガラスにグラヴィール装飾といったアール.ヌーヴォー様式を得意とし、トリノでの第1回国際現代装飾美術展に出展、銀賞を受賞するなど高い評価を得た。
1923年にシュレジアのジョセフ.インヒッテージ社らと合併、戦後もドイツのガラス業界に大きな影響を与えたが、その後工房は閉鎖、現存はしていない。

(SPECIAL THANKS / Gallery Kotetsu in Sapporo)

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◆ガラス工房解説 6 【Val.St.Lamvart】

Val.St.Lamvart

1825年ベルギー東部、リエージュ郊外のヴァル.サン.ランベール修道院跡地に創立。当時ベルギーを支配していたオランダ国王ウィリアム一世の要請によるものだった。ベルギーの独立後には、引き続き国王レオポルドー世の後盾を得て急激な発展を遂げる。その背景には、リエージュという街がドイツとオランダという中央ヨーロッパのガラス生産地国境近くにありガラス工芸が定着していた文化的要因と、近隣のボネッシュ村から良質な鉱石や豊富な石炭が採掘される、恵まれた立地的要因が下地にあったからである。
1880年頃には、フランス及びベルギーの中小のガラス工場を買収して更に成長、従業員4000人を超える世界最大のガラス工場となる。この頃の主な製品としては装飾品、テーブルウェアから鏡、板ガラスといったものまであらゆるガラス製品を生産している。生産量も世界一であったが、同時にガラス職人の積極的な招聘や、フランスのサン.ルイからの影響を受け、鉛クリスタル.ガラスの生産にも着手していった。

1890年代になると、ヴァル.サン.ランベールもアール.ヌーヴォーの影響を受けていく。それまでは伝統的な吹きガラス技法にボヘミア式カット技法で装飾したものが主流であったが、この時期に初めて型吹き手法の色被せガラスを取り入れ、それにカットを施した。文様は主に草花文様をレリーフカットしたもので、ナンシー派色の強い作品が多い。
アール .ヌーヴォー期に携わった作家、技術者は、宝飾家のフィリップ.オルヴァー、彫金作家のヴァン.ド.ヴェルド、家具作家のセルュリェ.ボヴィ、ナンシー派のミューラー兄弟、そして近代同工場の中心的人物、レオン.レドゥリュとジョセフ.シモンなど鐸々たる面々である。
引き続きアール .デコ期に入っても、レオン.レドゥリュとジョセフ.シモンを中心に色被せガラスを中心に作品が展開されていく。第一次大戦の災禍と、ベルギーでは比較的アール.ヌーヴォー様式が長く続いた為、アールデコ様式への転換が遅れたが、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会、1926年のパリ展に出展。時流に即した幾何学的な文様をカットした作品が高い評価を受けた。この時期にはほぼ独自の世界を確立し、色被せカットガラス、クリスタルカットガラス、色被せカットガラスにグラヴィール、クリスタルガラスにグラヴィールといった現在の作品様式が定着する。これらの技法においてはヨーロッパでも有数の水準を誇るものとなった。

ヴァル.サン.ランベールのガラスは芸術作品の性格を持った物は少なく、むしろテーブルウェアを中心とした実用品に比重が置かれてきた。しかしその独特の美しいカットスタイルは今なお、ヨーロッパ最高級と賞賛され、色被せガラスに様々な技巧を凝らしたスタイルには古くからの愛好家も多い。ベルギーガラス産業に偉大な足跡を残してきたこれら優れたテーブルウェアは、「ベルギーのロールスロイス」と調われ、同国王室を初め世界で愛用されている。

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◆ガラス工房解説 7 【Orrefors】

Orrefors

1898年、スウェーデン南部スモーランド地方、バルト海に面した港町カルマル近郊に設立。オレフェスとは、スウェーデン語で川を意味する「fors」と近隣の湖名の合成語である。歴史を遡ると1726年に創業した鉄工所が前身で、この地域は精製用の清水と薪となる木材に恵まれていたため、古くから鋼業所やガラス工場が集積していた。現在でもオレフェス以外にコスタ.ボダ、ベリダーラなど15ものガラス工房が集まり、ガラス王国の感を様している。
鉄工所の経営難からガラス工場に転身したオレフェスは、当初窓ガラス、瓶、インクボトルなどの日常品を生産していたが、アール .ヌーヴォー期にカメオ彫刻を施したガレ様式の作品を制作、工芸ガラス分野への先鞭をつける。

1913年には新所有者ジョアン.エィクマンとアルバート.アーリン工房責任者のもと「オレフェス・ガラス工場」と名を変え、翌年からはクリスタルガラスの生産に着手、また優秀な職人の招聘や労働環境の向上に取り組むなど、芸術と産業の両立を目指した展開期に入る。
そしてこの時期、オレフェス社の命運を担う二つの才能が招かれることになる。一人は 1916年に入社したサイモン.ガーテ、もう一人は翌年からデザイナーとなったエドワルド.ハルドである。両者共に大学では絵画、建築を専攻しておりガラス工芸とは無縁で、当時としては異例の抜擢であった。だが彼らの手により「グラール技法」「エアリエル技法」というオレフェス社独自の新技法が考案され、カッティングした有色ガラスの製作が本格的に始められる。
オレフェスはアールデコ期にコスタ社と共に北欧のガラス産業を率引、アール .ヌーヴォーとアール.デコを折衷した手法の作品や、アール.デコ調の照明器具の製作を活発に行う。この時期の作品は、従来のアール.デコ様式より穏やかな色彩や曲線を持ち、優雅な情緒性を醸し出すものが多い。透明素地に人物画などをデザインし、繊細なグラヴィールを施す作品も特徴的である。スカンディナヴィア.ファンクショナリズム(感覚的機能主義)とも呼ばれる彼らの様式は、1917年のノルウェーでの展示会で各国の注目を浴び、1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会ではグランプリを受賞するまでに至る。

こうして北欧の一地方ガラス工場から世界的な知名度を得たオレフェスだが、その革新性は留まるところを知らない。第二次大戦を挟んで、ヴィッケ .リンドストランド、エドウィン.エールストレム、ウルリーカ.ヒュードマン=ヴァリエンといった現代ガラス作家の旗手とデザイナー契約を結び、次々に優れた工芸ガラス作品を生産していく。専任の芸術家によるデザインと、熟練した職人の完全な分業システムは、オランダのレールダム、フィンランドのイッタラと並び時代の先取りをし、現在も約10人の精鋭専属デザイナーを擁している。
また企業としても、 1946年にスウェーデンのもうひとつの雄、コスダ.ボダを傘下に加え(その後可度か離散集合を繰り返す)、更には1997年秋にはデンマークのロイヤル.コペンハーゲンら5社で合併、ロイヤルスカンジナビアグループを設立する。

北欧独特の機能性と合理性を共存させた、シンプルでモダンなデザインは近年ガラス産業の新勢力として世界中で人気を博している。その中でもオレフェスはスカンジナヴィアを代表するガラス工場で、常にリ一ダー的な存在である。またデザインだけでなく優れた品質も、グナ . シレーンのテーブルウェア「ノーベル」が実際にノーベル賞の受賞晩餐会で使用されていることからも折り紙つきである。

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◆ガラス工房解説 8 【Warterford】

Warterford

1783年、アイルランド南部の港町ウォーターフォードにて創立。地元の有力者、ジョージとウィリアムのペンローズ兄弟が、イングランドのガラス職人ジョン・ヒルを迎えて鉛クリスタルガラス工房を造ったのが始まりだった。イングランドでは1671年に発明された鉛クリスタルガラスにより、1720年頃からカットガラスが生産されはじめた。18世紀半ばにはカットガラスを中心にイングランドのガラス産業は進展をみせる。しかし、1777年に政府がガラスの重量加算税を制定した為、多くのガラス職人が国外へ流出した。ウォーターフォードはそれら職人の受け入れ先の一つであり、アイリッシュ.ガラスの歴史もこの時代から本格的に始まった。

当初は職人 70人程度の創業だったウォーターフォードは、テーブルウェアやシャンデリア中心に生産する。特徴である鋭角に磨がれたカッティングなどの装飾技術は高品質を誇り、19世紀前半にはイングランド王ジョージ三世からの別注を賜るなど名声を博す。また、スペインやアメリカなどへの輸出も活発に行われた。
ところが1825年に宗主国イングランドの圧力により、アイルランドの優遇税制が撤廃され、物品税の導入もなされる。これにはアイルランド産業自体が大打撃を受け、19世紀半ばには僅かを残して壊滅してしまう。ウォーターフォードも例外ではなく、無類の評判を得たにも関わらず僅か百年足らずで休業状態に追い込まれ、復活するまでにもう百年を待たなくてはならなかった。
第二次大戦後、アイルランドの独立と共にウォーターフォードも復活を果たす。以前の工場の僅か 800m隣の場所に新工場を設立しガラス製造を再開。以後テーブルウェア、シャンデリア、コンポートを中心に製作する。また近年においては、1986年にウェッジウッド社と合併、ウォーターフォード・ウェッジウッド社を設立しダブリンに本部をおく。その後ローゼンタールなども吸収、伝統と歴史の結合した高級ライフスタイル・グループ形成する。

ウォーターフォードのガラスは現在でもクラフトマンシップに溢れており、製作の工程は 200年前とあまり変わっていないとも形容される。特にカッティング技法は同杜の伝統ともいえ、鉛クリスタルの特性を良く生かしたものである。その中でも「アラーナ」に代表されるストロベリーダイヤモンドカット文様は、深い角度で繊細に掘り込まれており、高度にグラインダーを使いこなす技術が要求される。これら重厚繊細なカットに加え、クリスタル素地も鉛の含有量が30%を超える「レッド.クリスタル」を使用、透明度、輝度、重量感共に優れ、世界最高級クリスタルの源となっている。

今日においてウォーターフォードは、欧米での認知度が非常に高く、テニスやゴルフなどの世界的な大会のトロフィーに同社のグラスが使用されている。特にアメリカで圧倒的な人気を誇っており、 2004 年で販売 50 周年となった銘品「リズモア」を筆頭としたテーブルウェアは毎年のように人気リストで首位を占める。その他にもシャンデリア、オブジェ、コンポートなども高い支持を得ており、同社のコンポートが、アメリカ大統領の就任祝いにアイルランド政府から送られるのは事に有名である。
現在アイルランドのウォーターフォード郡では三つの工場が稼動、またグループ内の協力や共同開発により、中国磁器、銀製品、リネンなども新機軸として展開している。

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2007年3月 7日 (水)

◆ガラス工房解説 9 【Rene Lalique】

Rene Lalique

言う迄も無く、アールデコのみならず近代を代表するガラス工芸界の巨匠。ラリックについては研究書としても幾百の出版物が出され、簡単に解説を加えることは難しい。従って彼の極々簡単な履歴と、ガラス作家としての功績を辿ってみる事にする。

1860年 4月6日、パリの東に約120km、シャンパーニュ地方のマルヌ県アイにて生誕。
1876年 父親死去。16歳で宝飾技師ルイ.オーコックの元で働く。
1878年 ロンドンに渡り、2年間美術学校でデザインを学ぶ。
1880年 パリに帰国。二年間、宝飾デザイナーとして働く。
1882年 宝飾デザイナーとして独立、各杜にデザインを提供し活躍。
1886年 宝飾工房を買い取り、自ら実作を始める。
1889年 パリ万国博覧会に出展。(29歳)
1890年 宝飾部品として、鋳造ガラスを手掛けはじめる。
1898年 パリ郊外にガラス工房を設ける。
1900年 パリ万国博覧会に出展。その後も数々の博覧会出展や製作依頼が続く。(40歳)

ラリックはアールヌーヴォー期には宝飾デザイナーとして活躍した。1889年のパリ万国博覧会に出展し注目を浴び、その後数々の展覧会やサロンで名声を高める。1900年のパリ万国博覧会では100点以上の作品を出展し、賞賛の中で宝飾作家としての地位を不動のものとする。この頃の作品はやはりアールヌーヴォーらしく、今までの既成概念を打ち破った材質や細工を用いていた。また、彼がこの時期までに培ったデザインの技法、ガラスの製法技術は、後のガラス作家への転身の際に大きく役立つ事になる。

1908年 香水商フランソワ.コティとの共同関係が始まる。
1909年 パリ南東コーム.ド.ウィルにてガラス工場を構え、ガラス製品の生産に入る。
1911年 ガラス作品への比重が増えていく。
1912年 ガラス作品のみの展覧会を自営店で開催、この後宝飾作品の製作を放棄する。
1914年 第一次対戦勃発。同年から1918年までガラス製作を休止。


1907年、ラリックの後半生の運命を決定づける、香水商フランソワ.コティとの出会いがあった。コティはラリックに香水瓶のパッケージデザインを依頼、これを期に本格的にガラス製作に入り込む事になる。今までの一点ものの宝飾品とは違い、量産品の香水瓶という商品自体が、あたかもその後のラリックの方向性を暗示している。そして1907年を最後に、彼は宝飾作品から離れ、ガラス作家一筋に取り組むようになる。

1918年 第一次大戦終了。
1921年 アルザスロレーヌ地方に第二工場を設立。ガラス製作再開。
1925年 現在装飾美術産業美術国際博覧会出展、ガラス工芸.工業部門代表を務める。
1926年 「ルネラリック杜」設立


第一次大戦により操業休止を止むなくされたラリックだが、戦後翌年には近代設備を整えた大規模な第二工場を設立、生産を再開させる。それまでの宝飾作家としての知識と技術に加え、新たに開発した技法など全てをガラス製作に注ぎ込み、以後次々と作品を発表していく。そして 1925年のアールデコ博では工芸作品の出展以外に、自身のパビリオンの他、各パビリオンの内装、ガラス製の大噴水など室内外を問わず大規模な作品を発表、大成功を収めた。こうしてアール.デコ期を通じ、ラリックがガラス工芸界に与えた影響は限りなく大きいが、大別すると以下の通りであろう。

ラリックの革新性は、当初から品質の高い量産品を造ることを念頭においていたことに挙げられる。アールヌーヴォー期の殆どの作家達が、作品の近代化に相反して、手作り志向による一点製作主義から脱却出来ずにいたのに対し、ラリックはガラス工芸を同時に産業として捉え、自らはデザインを担当、生産は機械化された工場で、と工程を明確に分離した。ガラスの手工業的生産を近代的生産システムヘと脱却させたのである。
そして作品を大量生産とすると同時に、エミール .ガレらが築き上げた「美術工芸品」としてのガラスの価値も継承していく。デザイナーとしてラリックは、ガラスの特性を最大限に引き出し、なおかつ独創的で時代の最先端の造形を生み出していった。同時に、素地にはセミ.クリスタルガラス、成型にはプレスや型吹き、という風に、量産に適した素材や技法の開発を続け、高品質な工芸作品を生産していく。また博覧会用などに、自ら手掛ける一品製作も並行していくが、生産品とは一線を画した形で行われた。
こうした生産システムの確立により、ガラスの用途が新しい分野にも拡がっていく。異なるガラス素地や装飾のものを様々なバリエーションで大量生産出来ることで、今までには無い、未領域へのガラスエ芸の進出が可能となった。テーブルウェア、シャンデリア、花瓶といった既存の分野に加え、コンポート、モニュメント、船舶や列車、教会など室内外を問わない大規模な装飾、更にはカーマスコットに至るまで様々な領域に可能性を拡げていった。しかもそこには量産品としての品質劣化は見受けられず、優れた美術作品としての価値も並存していた。

ラリックの技法的特徴については諸誌を参考にしていただきたいが、作品の大きな特徴は素材、装飾共にガラスの透明性を最大限に活用したことであろう。素地には透明クリスタルと、半透明ないしは乳白色のオパルセント .ガラスの組み合わせを好んで多用する。色ガラスを用いる際にも色彩をぼかし、極力透明感を表現する。装飾にもサチネ、パチネといった色、光沢表現を主とした技法でガラスに更なる奥行き、立体感を与えた。こうしたラリックの作品は、光の調度で色彩、透明感、輝度が微妙に変化し、独創的な質感を持つ。そこには優れたデザインからくる造形美に加え、ガラスのみが持ちうる、重厚さ、はかなさ、神秘性などといった、素材からくる美しさも秘められていた。

1939年 第二次大戦勃発。ガラスエ場停止。
1945年 5月5日、85歳にて永眠。息子マルク.ラリックが後継となる。


アールデコ博後も精力的な制作活動を行っていたラリックだが、1939年の大戦勃発により二つの工場はドイツ軍に接収され止むなく休止、その後本格的な活動に入ることなく1945年にこの世を去ってしまう。
ラリックの築き上げた業績は、1950年代を代表する工芸作家として活躍した息子マルク、さらにその娘マリークロード・ラリックによって継続されていた。が、経営とアートディレクションを担っていたマリーは1994年に自社株を売却、1996年には完全に事業から撤退し血縁者による経営は終わりを告げた。ラリック社は現在ポシェ社の傘下に入っている。
しかしラリック社の芸術性と実用性に富んだ作品は今尚高い人気を誇っており、植物、動物、女性像などのモチーフを、クリアとフロステッドによる対比で柔らかく表現する手法は同社独特のものである。

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2007年4月29日 (日)

◆ヴェネチアンガラス

15世紀から18世紀にかけてヨーロッパガラス工芸の主役となり、特にルネサンス期の15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎え、ガラス市場をほぼ独占した歴史的なガラスの生産地域。同時に各国のガラス工芸にも大いなる影響を及ぼした。ただ、ヴェネチアという都市の形成自体が未だ解明されていない為、起源については定かではなく不明な点が多い。古代ローマ帝国の吹きガラス技術がこの地で継承されていたと思われ、7~8世紀頃になるとその頃のガラス工房跡やガラス片が出土しており、ヴェネチアにガラス製作が定着していたことが判る。また982年には、既にガラス専門の職人のいた文献が残っている。

ガラス産業が大きく発展を遂げるのは、ヴェネチア共和国が地中海貿易などにより政治、経済的に急成長をした 13世紀からである。地中海交通の要であると同時に、西欧、東欧文化の合流点でもあるヴェネチアは工芸文化においても様々な様式を取り入れることが出来た。1224年にはガラス職人組合の存在が、1271年には組合規約の制定が確認される。またこの頃から原材料の管理や操業期問の規定など政府の介入が強化されていった。
そして 1291年にヴェネチアン.ガラス産業における画期的な決定がなされる。ヴェネチア本島の全ての工房が強制的にムラーノ島へ移転させられ、本島市街地での窯の建設が禁止されたのである。当時まだ木造が主流だったヴェネチアの街を火災から守る為と、ガラス職人の国外流出を防ぎガラス製法が漏れないよう監視する為であった。これらの事から、既に同時代、ガラス製造はヴェネチアの重要な基幹産業であった。13~14世紀のガラス製品となると遺例は稀だが、それでもドイツ、ユーゴスラビア、ハンガリーなどでヴェネチアのガラス片が発見されており、各国に輸出されていたことがわかる。

15世紀に入りヴェネチアンガラスは黄金期を迎える。ルネサンス期を背景にしたこの時代の主流は、色ガラスとエナメル彩による技法であった。器の形は金属食器を模したステムの付いた酒盃形状のものが多く、色とりどりのガラスにイスラム色の強い文様が絵付けされた。また6世紀以降ヴェネチアンガラス文化が更に開花する技法の下地もこの時期に開発される。「クリスタッロ」「ラッティモ」の登場である。
クリスタッロ (ヴェネチアン.クリスタル)とは、従来になかった無色透明のガラスで、原料に消色材の酸化マンガンを加える事により透明度が格段に高まり、当時では「水晶のよう」と賞賛されこの名が付いた。ラッティモは当時輸入され人気の高かった中国磁器を模した乳白色のガラスであり、原料に酸化錫などを加え白濁させた。両者ともこの時代では金、エナメル彩による装飾が行われたが、やがてレース.ガラスヘの技法へと結びついていく。

16世紀になると前述したクリスタッロが主流となり、無装飾の物や、ダイヤモンドポイントで点、線刻したものなど透明性を生かしたものが作られ始めた。そしていよいよレースガラスの発明がされる。クリスタッロに細いラッティモの線文様を組み込んで繊細なレース状の文様(フィリグラーナ)を創り出すものである。平行文様(ア.フィーリ)、網目文様(ア.レティチェロ)、ねじれ文様(ア.レトルトーリ)の三種の文様を巧みに使いこなす高度な技術は、ヴェネチア.ガラス職人の秘法中の秘法とされた。また形状も、ガラス独特の線的な美しさと薄さ、軽さを結びつけた優雅で幻想的なものが主になっていく。
この時代にヴェネチアンガラスの興隆は正に極まり、ヨーロッパ市場の 90%以上を独占するほどの繁栄を見せた。以降、北ヨーロッパの各地で「ファソン・デ・ヴェニーズ」と呼ばれるヴェネチアンタイプの模造品が多く作られ、中には逃亡したヴェネチアの職人の手になる物もあり現在でも判別不能ものも少なくない。古文献によるとムラーノ出身のガラス職人はベルギー、オランダ、ドイツ、フランス、更にはスゥエーデンにまで移住が確認できる。それほど、この時代にヴェネチアガラスが与えた影響はただならぬものだった。

ヴェネチアングラスの技巧的特性は原料のソーダガラスに起因する。ソーダ灰を用いて作られるこのガラスは、後に発明されるカリガラスや鉛クリスタルガラスに比べ透明度や硬度は低い。しかし溶融中の可塑状態が長い為、宙吹きの手法に適している。また、ピンサーなどで摘んだり、形状を整えたり、他の溶融中のガラスと接合するなど、自在に成形することが可能である。これらの特性とクリスタッロの透明性を充分に生かして、ヴェネチアのガラス職人は軽業師の妙技(ア.マーノ.ヴォランテ)と謳われる装飾技術を築き上げていった。
17世紀に入るとバロック期の時流とも相まって、職人による名人芸とも言える技巧は華美なものとなっていく。ステム部には色ガラスが用いられ、幾つもの細かいパートを使い、龍、鳥の翼、花など動植吻を具象化して装飾したフリューゲルグラスなどが盛んに創り出されたが、奇抜さや意匠を凝らせば凝らすほど実用性は薄れていった。レースガラスは引き続き花形的存在であり、さらに複雑化した羽毛文様(ア.ペンネ)も登場する。但しファソン・デ・ヴェニーズは各地で増々盛んになり、ヴェネチア国家自体の弱体化も相まって次第にその独占市場を脅かされていく。

17世紀後半以降、ボヘミアを初めドイツ、イギリスの台頭によりヴェネチアンガラスの影響力も徐々に薄れていく。特にボヘミアのカリ.クリスタルガカスはヴェネチア伝統のソーダグラスに比べ、透明度、輝度、硬度に優れておりグラヴィールやカッティングの技法に適していた。その流行の影響に伴い、以前とは逆にヴェネチアでボヘミア様式(アド.ウーゾ.ディ.ボヘミア)のガラスを生産することにもなる。
その後、ヴェネチアンガラスの工房は再び本来自分たちの持つ技法の再構築と更なる洗練化によって失地回復を試みる。また新分野として大型の鏡とシャンデリアの製作では、ヴェネチア独自の技巧を凝らした装飾性の高さで高い人気を博した。
だが 1797 年にナポレオン率いるフランスに占領されヴェネチア共和国は解体、 1806 年のガラス職人組合の廃止によって工場も廃れ、ひとまず歴史を終える事となる。その後オーストリアに、そして新興国イタリアに統合されるヴェネチアのガラス産業の再出発は、モザイクガラスの制作やルネサンス期作品の複製などで新風を吹き込む 19 世紀後半のムラーノ復興運動まで待たなくてはならない。

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◆アールデコ

アールヌーヴォーが下降線を辿るのと相反するように台頭し、ヨーロッパ、アメリカを風摩した美術様式。アール .デコラティフ(装飾美術)の略語で1925年様式、機能芸術とも言う。最盛期は「アールデコ博」と呼ばれた1925年の現在装飾美術産業美術国際博覧会を中心とした1920~1930年頃。

アールデコは、ややもすると華美、または過度に具象化した表現技法に走りすぎたアールヌーヴォーに反作用するが如く、対照的な美術様式を持つ。機械化文明を反映した幾何学的、直線的なデザインをもち、シンプルな装飾で作品を表現した。また、ガレに代表されるような作者の情感や精神世界を訴える装飾技法を排し、知的でガラスの透明感や明るい質感を生かした彫刻感が強いのも特徴である。アールデコ期においてもガラス工芸は建築、彫刻、家具、服飾、カトラリーなどと並び中心的存在で、美術乍品としての位置付けを認知され続けた。

アールデコのガラス工芸は、ルネ.ラリックを中心に展開される。アールヌーヴォー初期に宝飾作家として活躍したラリックはガラス工芸に転身、彫刻美術品とも言うべき作品を数多く創り上げた。また型吹きやプレス成型による量産体制を確立し、現在ガラス産業の先鞭を担う。更に香水瓶、置物、カーマスコット、室内外のモニュメントなど、ガラスの活用領域を新たな分野に広めた。近代ガラス工芸に与えた影響面では、様式の違いはあれどアールヌーヴォーのエミール.ガレと並び双壁である。
他方、アールヌーヴォーの拠点となったナンシーでは、ドーム兄弟の跡を継いだオーギュスト .ドームが次第に旧様式からアールデコに即した作品製作に転換、引き続き国際的に高い評価を得た。またドーム工房から独立したシュネデール兄弟はナンシーからパリ近郊に工場を構え活躍する。それに対しエミール.ガレを失ったガレ工房は、しばらくは事業的に成功を収めるが遂にガレ様式の作品から脱却出来ず、1931年に世界恐慌のあおりを受け、遂には工場閉鎖となってしまう。
ナンシー派以外では画家から転身、 1925年の博覧会で高評価を受け大成功を収めたモーリス.マリノ、同じく画家出身にてエナメル彩で才能を発揮したマルセル.グッピーと門下のオーギュスト.ハイリゲンシュタイン。また、個人作家としてロブマイヤーにデザインを提供し続けたヨーゼフ.ホフマン、アドルフ.ロース。バカラとデザイナー契約を結んだジョルジュ.シュバリエなどがいる。

アールデコ期の技巧的特徴としては、アール .ヌーヴォーから引き続いて高い人気を保ったパート.ド.ヴェールが揚げられる。この製法は複製生産にも向いており、鋳型を使ったもの、押し型法など様々な成型法が用いられた。また、機械によって作り出した圧縮空気による型吹き成型やサンド.ブラスト法といった新技法もさかんに行われた。カット技法も、時代に即した幾何学的でシンプルな面カットが主流となり、素材にも透明なガラスと並び、乳白色のオパルセント.ガラスが人気を博した。
しかしアールヌーヴォー期と違い、これら流行の中でも時代様式のみに埋没せず、各作家がそれぞれの技法的特徴を持っているのも時代の特徴である。例えば型吹き成型、型押し溶着、オパルセント .ガラスなどは主にラリックが使用した技法であり、アンテルカレールや酸化金属による着色はモーリス.マリノが愛用した。グラール技法はスゥエーデンのオレフェス杜によって完成、使用され、着色に黒色を用いるシュヴァルツロット技法はウィーンを中心にした技法で他地域では殆んど見られない。作家がそれぞれの個性を明確に打ち出した時代であった。
産業史の観点から見ても、この時代に近代的な生産方式を確立たことは大きな意義があった。アール .デコ期においては、大幅な機械化によるガラスの量産が容易となり、ガラス製品は確実に新しい階層、新しい分野へと拡がっていく。また、機械化量産用の工業的製品と、手造り一点製作による博覧会用などの芸術作品が、作家ごとに、あるいは同一作家の中で明確に区分されるようになる。

だが興盛が急激であるほどその反動も大きい。アールヌーヴォーにも共通するが、博覧会の最盛期がそのまま急速な凋落の始まりでもあり、僅か 10 年足らず、第二次大戦を前にその文化様式は姿を消してしまう。しかしアールヌーヴォーからアールデコと系譜する流れは戦後になって、デザイナーと職人側の明確な糞務分化と製作の協同体制、工芸品的な良質のガラスの大量生産と種類の多様化、個人デザイナーの活躍などによるガラス芸術分野の確立、といった形になって現在に引き継がれている。

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◆アールヌーヴォー

アールヌーヴォーとは 1890~1910年代にかけてフランスを中心に展開され、欧米で流行した新しい装飾芸術活動のことである。最盛期は1895~1905年間(イギリスではモダン.スタイル、イタリアではステイル.リバテイ、ドイツやボヘミア、オーストリアではユーゲントシュテイールと呼ばれる)。1889年のパリ万国博覧会で導火線に火がつき、間もなく爆発的に流行する。1900年の同博覧会では「アールヌーヴォーの勝利」とまで謳われ全盛期を迎え、一世を風摩した。
予兆は 1870年頃のアート&クラフト運動から始まる。これは機械化時代の到来に際して品質や趣味の悪化が工芸作品の分野に及ぶ事を危倶した運動で、中世以来の手作業の重要性を唱えながらも機械化の長所も取り入れ、芸術の大衆化を図った運動であった。また1880年代後半からは象徴主義、世紀末芸術の動向が活発化する。これらの芸術新潮がアールヌーヴォーへとつながっていった。

アールヌーヴォーの意義は、文字通り「新しい芸術」として、過去の伝統、しがらみがもたらす様式の混乱から脱却して、時代や地域の形式に捕われない新しい価値観を模索、確立することにあった。簡単に言うと決まり事を排除し、全ての表現方法や様式を複合したものから新しい創作を生み出そうとしたのである。
従ってルネサンス、バロック、ロココはもとより、イスラム、ケルト、中国、そして日本といった様々な国の様々な時代の影響を受け、芸術の無国籍状態の中から次時代への新しい道筋を切り開いた。特に日本は1867年のパリで初めて万国博覧会に参加するが、その際に浮世絵、陶器、蒔絵などの日本美術がヨーロッパ芸術家に与えた影響(ジャポニズム)は計り知れない。
そしてこの時代、建築、絵画や陶器、インテリアと共にガラス工芸もその重要な一翼を担う。それまで装飾品や実用品の域を脱却し得なかったガラス工芸が、アールヌーヴォー期において「芸術作品」として昇華したことはガラス工芸史の観点から見ても非常に歴史的意義のあることであった。また、時代、地或といった様式ではなく、作家や工房の個々によって形態と装飾を打ち出し始めた先駆けでもある。

アールヌーヴォー期のガラス工芸は巨匠エミール .ガレを中心とするナンシー派によって先導される。ナンシー派とは同地の美術家たちによって結成された芸術家連盟のことであり、公式な結成は1901年であるが、アールヌーウォー初期から活動していた。フランス東部、アルザス.ロレーヌ地方のナンシー村はドイツとの国境近くにあり、侵略、割譲されるなど政治的に不安定な地域であった。その為かパリに対して強い独立志向があり、自治運動も盛んであった。
そしてこの時代、ナンシーの作家たちが創り出す作品は質、量共に一際抜きんでた位置を占めており、パリはおろか世界中を席巻する。主要作家だけでもエミール .ガレ、ドーム兄弟を筆頭にミューラー兄弟、ルイ.マジョレル、ヴィクトール.プルーヴェなど、錘々たる名前が並ぶ。
また、ナンシー派以外では、同じくフランスのパリ派の作家として、ウジェーヌ .ルソーやウジェーヌ.ミシェル、フィリップ.プロカール。ボヘミアのヨハン.レッツ.ヴィトヴェ、アメリカの代表的ガラス作家、ルイス.ティファニーらが活躍する。

ガラス工芸におけるアールヌーヴォーの表現手法の特徴は、自然界の動物、植物がモチーフとして使われ、具象化したものが多い。流動曲線を主とした造形の中に、生命の息吹、強さやはかなさを通じて、象徴性、幻想性、官能性を表現した。一般的に想像されるのは、蝉、蜻蛉などの昆虫や茸、枯葉、並木、海草などのモチーフであろう。特にナンシー派はガラスに装飾するモチーフをより写実的に、生々しく表現することが特徴に揚げられる。
作品製作の技術もこの時代、急速に高まる。ガレによって、マルケトリ、パチネなどの新技法が開発され、ガラス装飾に新たな様式が見出される。また、これまでの歴史のガラス製作に関わる全ての技法を総動員し、応用あるいは複合してガラス装飾に用いられた。製作技術の再構築である。パートドヴェールはローマよりの永い眠りから覚め、サンドゥィッチ技法はボヘミアを経てペルル .メタリックと姿を変える。エナメル彩やカメオ技法はより色彩の複雑さと多彩さを増し、被せグラスはアンテルカレールと更なる進化を遂げる。イスラム陶器のラスター彩技法はイリデセンスと名を変え、また家具製作技法のマルケットリーはその名のまま、それぞれガラス工芸に応用された。これら以外にもアップリケ、アイスクラック、カボッションなど多種多彩な技法が様々な形で使用される。しかし、これらのうち高度な技法の技術の多くは各作家個人一代限り、または一子相伝とされ、現在では製作技法が全く解明できない作品もある。

こうして急激に高まったアールヌーヴォーだが、時流の退潮もまた急激であった。 20 世紀に入るとその衰えは顕著であり、 1902 、 1904 年の万国博覧会では最早以前のような興盛振りは見られなくなってしまった。更に1904 年アールヌーヴォー期の中核、ガレの死去により凋落傾向に歯止めはかからず、やがては自然消滅してしまう。正に世紀末ロマンの象徴であった。そしてアールヌーヴォーの残影が消え切らぬうちに、ヨーロッパでは新たな芸術新潮の動きが活発化する。アールデコ期の到来である。

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2008年4月28日 (月)

◆ボヘミアンガラス

ボヘミアとは中部ヨーロッパ、現在のチェコ西部あたりの一地方である。 16世紀から17世紀前半にかけて隆盛したヴェネチアに変わり、ヨーロッパガラス工芸の中心を担った。最盛期は17世紀後半から19世紀後半頃。現在においても国の重要な基幹産業であり、伝統的なボヘミアンガラスを創り続けている。

ボヘミアでは 10世紀頃から簡易なガラス玉などが作られており、その後窓ガラスなどの日常品などが生産されるようになってガラス生産地として定着するようになる。14世紀には最初の工場が確認されており、15世紀には20以上もの工場があったという。その後6世紀にはウィーン周辺の北部地或で、幾つもの本格的なガラス工場が開設された。この時代の製品は主にヴェネチアン.グラスを模倣したもの(ファソン.ド.ヴェニス)やドイツのレーマー杯の複製などが中心であったが、1570年以降には他の地域よりも先進的にエナメル彩グラスを生産、またグラヴィール技法が試されるなどもした。しかしこの頃のボヘミアン.ガラスは質量共にヴェネチアはもとより、近隣のドイツ、ネーレルランド地方に及ぶ物ではなかった。
1612年にルドルフII世没後、一時期ハプスブルグ家の庇護も失ったボヘミア.ガラス界は、更に30年戦争により衰退する。しかし問もなく復興、戦後オランダやヴェネチアから多数のガラス職人が流入してきたことにより、かえって優れた技術が導入され新しい工場が多数設立された。この時期もファソン.ド.ヴェニスやエナメル彩、シンプルなグラヴィール製品を生産していが、常に職人たちによって新しいガラス工芸の技法が試されていた。そして遂に1685年、ボヘミアン.ガラスの運命を決定づけるカリ.クリスタルガラス(ボヘミアン.クリスタルガラス)が開発される。

それまでの水晶ガラス (無色透明なガラス)はヴェネチアのソーダガラス「クリスタッロ」が主流であった。中部ヨーロッパ特有のカリ灰を使ったガラス素地によるカリ.クリスタルガラスはソーダガラスよりも「より水晶のように透明」で、厚手で、硬度、輝度も高く、カットやグラヴィールなどの彫刻技法に適していた。つまりガラス独自の個性である「可塑性、透明性」により優れたものだった。以前からグラヴィール装飾に長けていたボヘミアに、彫刻技法に相応しいガラスが開発されたことにより、更に精密かつ鮮明な彫刻が生み出されるようになる。
こうして後期ルネサンスからバロック、ロココ期を迎える 17世紀後期以降、ボヘミア.ガラスはヨーロッパ市場に君臨する。宗教や神話上の人物、動植物をモチーフとした複雑で装飾性の強い彫刻や、繊細な明暗の対比によるドラマティックな表現技法は,時代背景や王侯貴族の趣味とも合致し特注品として愛用されていく。グラヴィール、エナメル彩といった得意分野に加え、黒単色によるエナメル彩、シュヴァルツロット技法といった新分野を生み出した。また1730~50年代にはゴールド.サンドウィッチ技法の大流行もあり、これを創り出せるのはボヘミアの職人だけであった。
更に19世紀に入るとエナメル彩にも大きく流行の変化が起こる。それまでは紋章や文様、簡単な絵付け程度であったが、肖像画や風景画などを写実的に、より絵画的に絵付けを行うようになった。また、ガラスの流行が無色透明から次第に色ガラスヘ移っていくにあたり、ボヘミアン.ガラスも素早く反応する。特に1830年代以降色ガラスが本格的に流行すると、銅赤色の被せグラスのグラヴィーングや黄色のステイニングなどを筆頭に製作、国内外を問わず圧倒的な人気を誇った。その後も更に色鮮やかで手の込んだ被せグラスや、きめ細かいグラヴィールの技法を開発し続ける。

しかしこの頃から、ヨーロッパガラス市場におけるボヘミアン .ガラスの地位は以前に比べ安泰とは言えなくなってくる。ヨーロッパ中央に位置する事もありボヘミア.ガラスは各地に影響を与えると同時に、ドイツ、オランダ、フランス、そしてヴェネチアで模倣され「ボヘミア風」のものが作られた。更に1671年にイギリスで開発された鉛クリスタルガラスがその独自の性質を生かし、19世紀中頃から人気を集めるようになってきた。特にイギリスとフランスの工場が鉛クリスタルを用いて台頭してくる。
またアメリカでプレスガラスの開発に成功、フランスとイギリスも相次いでプレスガラスを導入し、ガラス製造がより容易で安価となり一般化するが、宙吹き技法が中心のボヘミアにとっては脅威であった。そして 19 世紀後半から 20 世紀前半にかけてヨーロッパはアール . ヌーヴォーの時代に入り、ボヘミア . ガラスの黄金期は終焉を迎えることとなるが、その伝統と高い技術は廃れることなく現在にも引き継がれている。

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